慈悲は美しい秩序であり、調和をもたらします。慈悲は心が産み出す人間美の芸術です。慈悲ある人は内面から、素敵な輝きを放ちます。慈悲は絶えず変化し、更新される美しさです。私たちの生命は、もともと健康と病の二面を持っていますが、病を健康に変えゆく智慧を秘めています。その力を慈悲と言います。慈悲とは万物を産み出し育み慈しみ守り、苦しみを抜く大悲の智慧です。赤ん坊を無心に守り慈しむ母の振る舞いも慈悲です。慈悲は智慧を生みます。人間の最も美しい心は慈悲です。すべての生物は、本来その慈悲の智慧力を内在しているとブッダ(注1)は覚知しました。そして、それを私たちの生命に汲み出す方法を教えてくれました。その方法の一つが智慧即慈悲(注2)の瞑想です。
(注1)仏陀、サンスクリット語の音訳。インドで生まれた釈迦は仏の境地を得た後、釈尊、仏陀と呼ばれました。ブッダは、釈尊一人を指すのではなく、過去・現在・未来という三世の宇宙には無数のブッダがいるとされています。ブッダとは、生命の永遠性と無量の智慧を直感し、その智慧と慈悲の力で、多くの人々を実際に救済した人のことです。智慧即慈悲とブッダは説き、その智慧は甚深無量(法華経・無量ではてしない)であり、慈悲の心はすべての生物を救う大悲と説きました。また「慧光照無量」(法華経)、簡単に説明すれば、智慧の光は、宇宙の無限まで照らしゆくと説きました。「一切衆生の異の苦は如来一人の苦」と語ったブッダ。その意は、すべての生きとし生きるものの苦しみは、私一人の苦しみであるとして衆生救済に生涯を捧げました。その尊い慈悲の振る舞いを仏と言います。仏とは奈良の大仏のような偉大な人間離れした存在ではありません。人間性の極致である、尊く美しい振る舞いを表現した言葉です。あくまで、仏は人間であるとブッダは強調されました。そして、弟子たちに自分と同じ仏の境涯に至る道を慈悲と智慧で教えました。最近の科学者の中にも、ブッダの悟りに限りなく接近した人がいます。それはニコラ・テスラ(1856-1943,交流電圧など200以上の発明者・詩人・哲学者)ではないかと私は思います。彼は数多くの発見発明をし、人類に貢献しましたが、それ以上に彼の生涯の生きざまや振る舞いから、彼の大悲の慈悲心と智慧の偉大さを私は感じます。ニコラ・テスラは言います。「存在とは光の無限の形象の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによって、すべての生命は織りなされたのです。」エネルギーは光であり、智慧であり、慈悲の光なのです。生の最高の表現(エネルギーの形象)は、智慧に裏打ちされた慈悲の振る舞いです。それを如来・仏と言います。
(注2)智慧即慈悲…直訳すれば、智慧はそのまま慈悲であり、慈悲はそのまま智慧であるという意味になります。わかりやすく言えば、慈悲は智慧の振る舞いを指し、智慧はその心の働きを指します。生命の持つ二面性を表現しています。仏法生命科学は、生命や出来事を固定的にとらえません。すべては流れであり、仮に一時的に組織化された存在ととらえます。宇宙の現象はすべて、振動する素粒子の働きで成立しています。ブッダは、この宇宙の振動を覚知していたと思われます。ニコラ・テスラやアインシュタインも、宇宙の存在物はすべて振動していると科学していたようです。現象を起こしている目に見えない流れをとらえる言葉として仏法生命科学は「即」を使います。あくまで、言葉は比喩ですが、言葉で表現しないと他者には伝わらないからです。有名な「色即是空」(般若心経…般若は智慧という意味です)は、この「即」がわからないと理解できません。即とは「円」であり、「妙」という不思議な目に見えない働きをするものとブッダは説きます。
病は 偏り、執着という部分へのとらわれが産み出したもの
偏りや執着は秩序を乱し、病を招きます。過剰や不足はバランスを崩し、心身を不調にします。生命の本来の秩序を知ることが何よりも大事です。科学を信じて生きている私たちは、部分観に生きざるを得なくなっています。科学は部分の分析から法則を発見し、私たちの生活に利益をもたらすという実証を示しているからです。分析された対象は真実です。しかし、ものごとの全体をとらえてはいません。意識し分析できる世界と、意識を超えて分析不能な広大な世界の働きに目を向けることが大事になります。部分と全体のつながりを知ることが、健康になるための必須の条件です。真の健康には、いかなる財宝や名声にも及ばない、喜びと心の躍動と調和の美があります。それは心の中に、もともと潜在する慈悲と智慧が現れたものにすぎません。これを「無上宝珠、不求自得」(…無上の宝珠は求めざるに自ずから得たり)とブッダは説きました。宇宙最高の宝が、私たちの生命にもともと存在しているということです。その宝こそ、慈悲即智慧のエネルギーなのです。慈悲は創造するエネルギーとも表現できます。その慈悲を私たちの生命に湧き出させる方法はブッダに学ぶのが一番です。自らそこに到達するには、一生をかけても到達できないかもしれません。正しい先人の智慧に謙虚に学ぶのが早道です。正しいことが大事になります。正しくないと努力が徒労に終わるばかりか、偏りより執着を作り不幸の原因を作ることになるからです。智慧即慈悲の瞑想の一つを芝蘭の室では実践しています。興味関心のある方は来所されてみてください。ご案内いたします。
〇筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部在学中から、哲学、文学、思想、日本人の行動様式理論、生と死の宗教学、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。