相談室(ブログ)

慈悲は 人間や生物の 苦しみを抜き  楽を与える不思議なエネルギーをもっている 

2025.12.25

我が家の庭で、一つの琵琶の種が八年の歳月を経て、立派な実になりました。私たちは、この世に誕生したとき、わずか0,2ミリほどの一つの精卵細胞という微小な存在でした。それがいつの間にか40数兆個の細胞に増え、50キロを超す大きさの身体に変化しています。これらの不思議な働きを生命の持つ慈悲といい、智慧といいます。この宇宙のすべては、慈悲と智慧によって産みだされたとブッダ(注1)は悟りました。このあまりにも不思議な働きをユダヤの人たちは、人間の外にその働きを概念化し、神(ヤハウェ)と名付け、創造主としました。それに対してブッダは内なる生命の働きと悟りました。誰人にも内在する内なる働きであるからこそ、人は自力で自分の運命(宿命・過去の行為の蓄積がもたらすもの)を変えてゆけると説いたのです。この世界のあらゆる言葉も概念も宗教もすべて人間の思考が創ったものです。人間が原点であり、人間を離れてはいません。ここを間違えると正しい生き方ができなくなります。

(注1)仏陀(ブッダ)(ぶっだ)、サンスクリット語の音訳。インドで生まれた釈迦(しゃか)は仏の境地を得た後、釈尊(しゃくそん)、仏陀と呼ばれました。ブッダは、釈尊一人を指すのではなく、過去・現在・未来という三世(さんぜ)の宇宙には無数のブッダがいるとされています。ブッダとは、生命の永遠性と無量の智慧を直感し、その智慧と慈悲の力で、多くの人々を実際に救済した人のことです。智慧即慈悲とブッダは説き、その智慧は(じん)(じん)無量(むりょう)(じんじんむりょう。無量ではてしないという意味、法華経の言葉)であり、慈悲の心はすべての生物を救う大悲と説きました。また「慧光(えこう)(しょう)無量(むりょう)」(えこうしょむりょう、法華経の言葉)、簡単に説明すれば、智慧の光は、宇宙の無限まで照らしゆくと説きました。「一切(いっさい)衆生(しゅじょう)(い)の苦は如来(にょらい)一人の苦」と語ったブッダ。その(こころ)は、すべての生きとし生きるものの苦しみは、私一人の苦しみであるとして衆生救済に生涯を捧げました。その尊い慈悲の振る舞いを(ほとけ)と言います。仏とは奈良の大仏のような偉大な人間離れした存在ではありません。人間性の極致(きょくち)である、尊く美しい振る舞いを表現した言葉です。あくまで、仏は人間であるとブッダは強調されました。そして、弟子たちに自分と同じ仏の境涯に至る道を慈悲と智慧で教えました。最近の科学者の中にも、ブッダの悟りに限りなく接近した人がいます。それはニコラ・テスラ(1856-1943,交流電圧など200以上の発明者・詩人・哲学者)ではないかと私は思います。彼は数多くの発見発明をし、人類に貢献しましたが、それ以上に彼の生涯の生きざまや振る舞いから、彼の慈悲心と智慧の偉大さを私は感じます。ニコラ・テスラは言います。「存在とは光の無限の形象の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによって、すべての生命は(お)りなされたのです。」エネルギーは光であり、智慧であり、慈悲の光なのです。生命の最高の表現(エネルギーの形象)は、智慧に裏打ちされた慈悲の振る舞いです。それを如来・仏と言います。(注1)終

慈悲は美しい秩序であり、調和をもたらします。慈悲は心が産み出す人間美の芸術です。慈悲ある人は内面から、素敵な輝きを放ちます。慈悲は絶えず変化し、更新される美しさです。私たちの生命は、もともと創造性と破壊性の二面(注2)を持っていますが、破壊性を創造性に変えゆく智慧(ちえ)を秘めています。その力を慈悲(じひ)と言います。慈悲とは万物を産み出し育み慈しみ守り、苦しみを抜く大悲(たいひ)の智慧です。赤ん坊を無心(むしん)に守り(いつく)しむ母の振る舞いも慈悲です。慈悲は智慧を生みます。人間の最も美しい品性は慈悲です。昔の日本人が愛してやまなかった観音菩薩(かんのんぼさつ 、正しくは観世音菩薩)は慈悲の体現者の象徴でした。すべての生物は、本来その慈悲の智慧力を内在しているとブッダは覚知しました。そして、それを私たちの生命に(く)み出す方法を教えてくれました。その方法の一つが智慧(ちえ)(そく)慈悲(じひ)(注3)の瞑想です。

(注2)創造性と破壊性の二面…生命とは混沌としたエネルギーの流れです。混沌をエネルギー(煩悩・欲望)の無明性とブッダは悟りました。この無明が破壊の原因です。人やものを破壊し損失させる戦争は人間の持つ破壊性・無明によって起こります。その無明をけん引する欲望(煩悩)が瞋り(いかり)、貪り(むさぼり)、癡か(おろか)、傲慢・慢心とブッダは洞察しました。その対極にある生命の働きが慈悲です。慈悲を人々の中に植え、その種子の開花の闘いを生涯されたのがブッダです。その生涯は迫害と茨の道でした。命を狙われたこと何度もあったそうです。正しい人は無明の破壊性の人に迫害されるのが、この世界の歴史の現実です。無明と慈悲は、誰人の中にも存在する働きであり、縁によってどちらかが顕れるとブッダは見抜いていました。人間の中に存在する無明の破壊性は快、それを好み続け自分のものにしたいと思う愛着、執着という煩悩・欲望の連鎖よって増幅されます。人々は快、好き、愛着、執着に傾き破壊性の味方になってゆき、無明に支配されてゆき、終末には光の乏しい暗い世界に入ります。破壊的な無明の人生なのか、創造的な慈悲の人生なのか、すべて人の記憶として心の内界深くに刻印され、その小我(私たちの個々の我のこと。それに対するものが、宇宙我・大我=慈悲と智慧)がエネルギー不滅の法則のように、未来永遠に続くとブッダは悟りました。

(注3)智慧即慈悲…直訳すれば、智慧はそのまま慈悲であり、慈悲はそのまま智慧であるという意味になります。わかりやすく言えば、慈悲は智慧の振る舞いを指し、智慧はその心の働きを指します。生命の持つ二面性を表現しています。仏法生命科学は、生命や出来事を固定的にとらえません。すべては流れであり、仮に一時的に組織化された存在ととらえます。宇宙の現象はすべて、振動する素粒子の働きで成立しています。ブッダは、この宇宙の振動を覚知していたと思われます。ニコラ・テスラやアインシュタインも、宇宙の存在物はすべて振動していると科学していたようです。現象を起こしている目に見えない流れをとらえる言葉として仏法生命科学は「(そく)」を使います。あくまで、言葉は比喩ですが、言葉で表現しないと他者には伝わらないからです。有名な「色即是空(しきそくぜくう)」(般若心経(はんにゃしんぎょう)…般若は智慧という意味です)は、この「即」がわからないと理解できません。即とは「円」であり、「妙」という不思議な目に見えない働きをするものとブッダは説きます。

病は (かたよ)り、執着という部分へのとらわれが産み出したもの

偏りや執着は秩序を乱し、病を招きます。過剰や不足はバランスを崩し、心身を不調にします。生命の本来の秩序を知ることが何よりも大事です。科学を信じて生きている私たちは、部分観に生きざるを得なくなっています。科学は部分の分析から法則を発見し、私たちの生活に利益をもたらすという実証を示しているからです。分析された対象は真実です。しかし、ものごとの全体をとらえてはいません。意識し分析できる世界と、意識を超えて分析不能な広大な世界の働きに目を向けることが大事になります。部分と全体のつながりを知ることが、健康になるための必須の条件です。真の健康には、いかなる財宝や名声にも及ばない、喜びと心の躍動と調和の美があります。それは心の中に、もともと潜在する慈悲と智慧が現れたものにすぎません。これを「無上宝珠、不求自得」(…無上の宝珠は求めざるに自ずから得たり)とブッダは説きました。宇宙最高の宝が、私たちの生命にもともと存在しているということです。その宝こそ、慈悲即智慧のエネルギーなのです。慈悲は創造するエネルギーとも表現できます。その慈悲を私たちの生命に湧き出させる方法はブッダに学ぶのが一番です。自らそこに到達するには、一生をかけても到達できないかもしれません。正しい先人の智慧に謙虚に学ぶのが早道です。正しいことが大事になります。正しくないと努力が徒労に終わるばかりか、偏りは執着を作り、不幸の原因になります。智慧即慈悲の瞑想の一つを芝蘭の室では実践しています。

筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部(一期生)在学中から、哲学、文学、思想、日本人の行動様式理論、生と死の宗教学(主としてキリスト経と仏教)、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。