相談室(ブログ)

慈悲は 私たちの苦しみを 楽へと変える 生命の智慧

2025.12.27

我が家の庭で、一つの琵琶の種が八年の歳月を経て、立派な木に成長し実をつけました。私たちは、この世に誕生したとき、わずか直径0,1ミリほどの一つの精卵細胞という微小な存在でした。それがいつの間にか40数兆個の細胞になり組織化され、50キロを超す大きさの身体に変化しています。これらの不思議な働きを生命の持つ慈悲(注1)といい、智慧といいます。この宇宙のすべては、慈悲と智慧によって産みだされたとブッダ(注2)は悟りました。このあまりにも不思議な働きをユダヤの人たちは、人間の心の外にその働きを見い出し、神(ヤハウェ)と名付け、万物の創造主としました。それに対してブッダは宇宙にもつながる法が、わが心の中にもあると直観したのです。誰人にも内在する内なる妙なる力であるからこそ、その法を覚知できれば、人は自力で自分の運命(宿命・過去の行為の貯蔵がもたらすもの)を変えてゆけると説いたのです。この世界のあらゆる言葉も思想も宗教も、すべて人間の思考から始まっています。存在する言葉、思想、宗教は人間が創ったものであり、決して人間を離れてはいません。ここを間違えると正しい法から外れてゆきます。

(注1)慈悲(じひ)…釈尊(ブッダ)の悟りの言葉の一つ。抜苦与楽(ばっくよらく)といい、苦しみを抜き楽を与えるという意味です。生命はエネルギーの流れであり、その流れは混沌(こんとん)(コラム)としています。普通は過去の経験の記憶で流れています。私たちはエネルギーの流れを、快、苦、快でもない苦でもないという三つを受信(一般的に感情と表現)しながら生きています。人は快を求め苦を避けますが、苦は避けることができません。人の五つの感覚(視覚、聴覚、舌覚、嗅覚、触覚)は、受信能力には限界があり、思い通りにならないことが多く、意識は苦を避け、快に執着します。快は楽であり、心地よさをもたらすからです。しかし、生命は快苦の絶妙なバランスで流れています。意識の快への執着が苦をもたらします。慈悲は智慧の力で苦を解脱(げだつ)し、その働きによって意識は楽を感じてゆきます。それを抜苦与楽の慈悲の働きといいます。その慈悲を支えるものこそ、無量の智慧です。慈悲の体現者を菩薩と呼びます。弥勒(みろく)菩薩、観音菩薩、文殊(もんじゅ)菩薩、普賢(ふげん)菩薩など、三世にはたくさんの菩薩がいます。弥勒のことを救済者・メシア(イエス・キリストはメシアと呼ばれていた)とも言います。太陽や地球は地上の生物を慈しみ育む慈悲を常に行じ、私たちの生命を救う菩薩の働きをしています。太陽神、水神、風神、地神、海神などの自然崇拝は人間の素直な感謝の心から発したものでした。それを宗教心と言います。菩薩は慈悲を修行する人ですが、仏は常に慈悲を振る舞う人です。仏のことを如来(にょらい)ともいいます。京都の三十三間堂には、たくさんの菩薩像や如来像が安置されています。それは、彼らが、人々の尊敬と憧(あこが)れの対象だったからです。すべて素晴らしい素敵な人たちであり、私たちの模範であり、目標の人たちです。

(注2)仏陀(ブッダ)(ぶっだ)、サンスクリット語の音訳。インドで生まれた釈迦(しゃか)は仏の境地を得た後、釈尊(しゃくそん)、仏陀と呼ばれるようになりました。ブッダは、釈尊一人を指すのではなく、過去・現在・未来という三世(さんぜ)の宇宙には無数のブッダがいるとされています。ブッダとは、生命の永遠性と無量の智慧を直感し、その智慧と慈悲の力で、多くの人々を実際に救済した人のことです。智慧即慈悲とブッダは説き、その智慧は(じん)(じん)無量(むりょう)(じんじんむりょう。無量ではてしないという意味、法華経の言葉)であり、慈悲の心はすべての生物を救う大悲と説きました。また「慧光(えこう)(しょう)無量(むりょう)」(えこうしょむりょう、法華経の言葉)、簡単に説明すれば、智慧の光は、宇宙の無限まで照らしゆくと説きました。「一切(いっさい)衆生(しゅじょう)(い)の苦は如来(にょらい)一人の苦」と語ったブッダ。その(こころ)は、すべての生きとし生きるものの苦しみは、私一人の苦しみであるとして衆生救済に生涯を捧げました。その尊い慈悲の振る舞いを(ほとけ)と言います。仏とは奈良の大仏のような偉大な人間離れした存在ではありません。人間性の極致(きょくち)である、尊く美しい慈悲の振る舞いを表現した言葉です。あくまで、仏は人間であるとブッダは強調されました。そして、弟子たちに自分と同じ仏の境涯に至る道を慈悲と智慧で教えました。歴史上にも、ブッダの悟りに限りなく接近した菩薩と言える人がたくさんいます。例を挙げると、ソクラテス、孔子、ガンジー、アインシュタイン、ニコラ・テスラなどです。ニコラ・テスラ(1856-1943,交流電圧など200以上の発明者・詩人・哲学者)は数多くの発見発明をし、人類に貢献しましたが、それ以上に彼の生涯の生きざまや振る舞いから、彼の慈悲と智慧の偉大さを私は感じます。テスラは言います。「存在とは光の無限の形象の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによって、すべての生命は(お)りなされたのです。」エネルギーは光であり、智慧であり、慈悲なのです。生命の最高の表現(エネルギーの形象)は、智慧に裏打ちされた慈悲の振る舞いです。それを如来・仏と言います。(注2)終

慈悲は美しい秩序であり、調和をもたらします。慈悲は心が産み出す人間美の芸術です。慈悲ある人は内面から、素敵な輝きを放ちます。慈悲は絶えず変化し、更新される美しさです。私たちの生命は、もともと創造性と破壊性の二面(注3)を持っていますが、破壊性を創造性に変えゆく智慧(ちえ)を秘めています。その力を慈悲(じひ)と言います。慈悲とは万物を産み出し育み慈しみ守り、苦しみを抜く大悲(たいひ)の智慧です。赤ん坊を無心(むしん)に守り(いつく)しむ母の振る舞いも慈悲です。慈悲は智慧を生みます。人間の最も美しい品性は慈悲です。昔の日本人が愛してやまなかった観音菩薩(かんのんぼさつ 、正しくは観世音菩薩)は慈悲の体現者の象徴でした。桜の花を見て心を癒されるのは、桜の持つ慈悲の働きを私たちが感じるからです。すべての生物は、本来その慈悲の智慧力を内在しているとブッダは覚知しました。そして、それを私たちの生命に(く)み出す方法を教えてくれました。その方法の一つが智慧(ちえ)(そく)慈悲(じひ)(注4)の瞑想です。

(注3)創造性と破壊性の二面…生命とは混沌としたエネルギーの流れです。混沌をエネルギー(煩悩・欲望)の無明性(むみょうせい)とブッダは悟りました。この無明が破壊の原因です。人やものを破壊し損失させる戦争や殺人や犯罪は人間の持つ破壊性・無明によって起こります。その無明をけん引する欲望(煩悩・ぼんのう)が瞋り(いかり)、貪り(むさぼり)、癡か(おろか)、傲慢(ごうまん)・慢心とブッダは洞察しました。その対極にある生命の働きが慈悲です。慈悲を人々の中に植え、その種子の開花の闘いを生涯されたのがブッダです。その生涯は迫害と茨の道でした。命を狙われたこと何度もありました。正しい人は無明の破壊性の人に迫害されるのが、この世界の歴史の現実です。無明と慈悲は、誰人の中にも存在する働きであり、縁によってどちらかが顕れるとブッダは見抜いていました。人間の中に存在する無明の破壊性は快、それを好み続け自分のものにしたいと思う愛着、執着という煩悩・欲望の連鎖よって増幅されます。人々は快、好き、愛着、執着に傾き破壊性の味方になってゆき、無明に支配されてゆき、終末には光の乏しい暗い世界に入ります。破壊的な無明の人生なのか、創造的な慈悲の人生なのか、すべて私たちの記憶として心の内界深くに刻印され、その小我(私たちの個々の我のこと。それに対するものが、宇宙我・大我=慈悲と智慧)がエネルギー不滅の法則のように、未来永遠に続くとブッダは覚知していました。

(注4)智慧即慈悲…直訳すれば、智慧はそのまま慈悲であり、慈悲はそのまま智慧であるという意味になります。わかりやすく言えば、慈悲は智慧の振る舞いを指し、智慧はその心の働きを指します。生命の持つ二面性を表現しています。仏法生命科学は、生命や出来事を固定的にとらえません。すべては流れであり、仮に一時的に組織化された存在ととらえます。宇宙の現象はすべて、振動する素粒子の働きで成立しています。ブッダは、この宇宙の振動を覚知していました。今の振動数を悟ることができれば未来の結果が見えてきます。だからブッダは未来2000年先の法の流れを予言(大集経にまとめられている)し、それを現実に的中させています。ニコラ・テスラやアインシュタインも、宇宙の存在物はすべて振動していると明察していました。現象を起こしている目に見えない流れをとらえる言葉として仏法生命科学は「(そく)」を使います。あくまで、言葉は比喩ですが、言葉で表現しないと他者には伝わらないからです。有名な「色即是空・しきそくぜくう(しきそくぜくう)」(般若心経(はんにゃしんぎょう)…般若は智慧という意味で目に見えない働きを指す。「色」=色法=分析できる形をもったもの、人間で言えば身体。空=「色・形あるもの」を支える見えない働き、人間で言えば心。その二つは、つまり一体である、その一体性を表わす言葉が「即」になります)は、この「即」を理解すれば生命の妙がわかります。即とは「妙」という不思議な目に見えない働きをするものとブッダは説きます。

病は (かたよ)り、執着という部分へのとらわれが産み出した一時的な不幸の現象

偏りや執着は秩序を乱し、病を招きます。過剰や不足はバランスを崩し、心身を不調にします。生命の本来の秩序を知ることが何よりも大事です。科学を信じて生きている私たちは、部分観に生きざるを得なくなっています。科学は部分の分析から法則を発見し、私たちの生活に利益をもたらすという実証を示しているからです。分析された対象は真実です。しかし、ものごとの全体をとらえてはいません。意識し分析できる世界と、意識を超えて分析不能な広大な世界の働きに目を向けることが大事になります。部分と全体のつながりを知ることが、健康になるための必須の条件です。真の健康には、いかなる財宝や名声にも及ばない、喜びと心の躍動と調和の美があります。それは心の中に、もともと潜在する慈悲と智慧が現れたものにすぎません。これを「無上宝珠、不求自得」(…無上の宝珠は求めざるに自ずから得たり)とブッダは説きました。宇宙最高の宝が、私たちの生命にもともと存在しているということです。その宝こそ、慈悲即智慧のエネルギーなのです。慈悲は創造するエネルギーとも表現できます。その慈悲を私たちの生命に湧き出させる方法はブッダに学ぶのが一番です。自力で学び修行し、自らそこに到達するには、一生をかけても到達できないかもしれません。正しい先人の智慧に謙虚に学ぶのが早道です。正しいことが大事になります。正しくないと努力が徒労に終わるばかりか、偏りは執着を作り、不幸の原因になります。智慧即慈悲の瞑想の一つを芝蘭の室では実践しています。

コラム生命の流れは混沌としたエネルギーであり、人間の苦・不幸の原因をつくる」…仏法生命論では、生命の流れを「煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦」の三道の流れととらえています。煩悩は生命のもともとのエネルギーであり、混沌としていて、苦楽の両方を持った流れです。意識は快楽を求め、それを五感覚を使って行為します。その行為を業と言います。その行為は習慣力を持ちます。特に刺激の強い、快楽と恐怖は、自動的に反復行為をします。脳内細胞の電気信号であるシナプスの配線が太くなるからです。人は五感の快を求め、思い・考えるという意識はそれを強め執着・愛着し、生命の調和を失っていきます。また巨富という不快を極度に避け、結果恐怖にとらわれてしまいます。その不調和が病であり、苦をもたらします。その流れの転換をブッダは、「法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)」の三徳と説きました。般若は智慧という意味です。法身は、私たちの本来の浄化された生命のことです。その生命には無量の智慧があります。その生命の智慧を引き出せば、苦は浄化される(解脱)という流れに変わります。法身とは誰人にの生命の中にも存在する、仏性・法性のことです。この生命を引き出すことができれば、あらゆる苦は楽へと変わってゆきます。その道を仏・菩薩道と言います。その道を行くには、ブッダのような正しい師と、宇宙の真理の法(三世の仏が悟った法)が必要になります。世の中は安易な道を誘う詐欺師のような人に満ち溢れています。賢くならないといけません。「何も考えず権威を敬うことは真実に対する最大の敵である」とアインシュタインは言いました。今はマスコミ、ユーチューブ動画、SNSなどの発信情報が権威化されています。実際にその人に会えば、その人の振る舞いからその人の真実が見えます。「百聞は一見にしかず」は真実を穿(うが)っています。

筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部(一期生)在学中から、哲学、文学、思想、日本人の行動様式論、生と死の宗教(主としてキリスト教と仏教)、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。深層心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。