私たちは常に何かを信じて生きている
朝起きて顔を洗ったり歯を磨いたりするとき、水に毒物が混ざっていると疑うことはありません。水を信じているからです。同様に食べ物を食べるときも疑いなく食べます。信じているからです。外出して外を歩く時も、道が突然陥没するなど思いもしません。道を信じているからです。人に会った時も、防衛することなく接します。攻撃されるなど考えてもいません。安全だと信じているからです。空気に毒ガスが混ざっていると思うと呼吸もできなくなります。人は信じることなくしては、一瞬も生きていけません。私たちは習慣的に多くのものを疑うことなく信じることによって生きています。信じることによって行動することができます。信じるとは、自分の周囲の環境を受け入れることなのです。そのとき智が発動します。信じる対象によって、智のレベルや発動力は変わっていきます。
なぜ人はだまされたり、いかがわしいもの、怪しい対象を信じたりするのか
間違った言葉を信じて行動すれば、詐欺師のような人にだまされ不幸になります。何を信じるかが幸不幸の分かれ道になります。言葉の真偽を見抜くのはとても難しいことです。なぜなら私たちは自分の置かれた状況や心理状態によって、同じ言葉であっても受け止め方が全く変わって受け止めてしまうからです。
誤信を起こす三つの心理状態…1、大きな苦しみ・怒り 2、激しい貪欲・焦り 3、強い恐怖と不安
もがくような苦しみに陥ると、私たちはその苦しみから少しでも早く脱出しようと冷静さを失い、考えることもせず、目の前にあるものにすがります。「溺れる者は藁(わら)をもつかむ」という心理状態になります。怪しい宗教や善人の仮面をかぶった悪人が、人の弱みに付け込み歓心を得るのは、この心理を利用しているからです。また欲に走りすぎると冷静さを失い、イソップ物語に出てくる「欲張りな犬」(注a)のように、今あるものもすべて失うようになります。詐欺に遭う人の一部に見られます。また恐怖状況や不安が強くなると、人は危機感を感じ、根拠のないものを信じてしまいます。オレオレ詐欺被害や関東大震災時に起きたデマ報道(注b)に見る、あおられた恐怖心によって、多くの人が犠牲になりました。私たちは、苦しみや怒りが強いときや強欲になり焦ったとき、さらに恐怖や不安が強くなった時、間違ったものに騙されやすい思考麻痺状態の心理状態になっていることを知ることは、とても大事なことです。テレビやSNSなどを使ったセールや販売にも、こうした三つの心理状態を巧みに利用した言葉が溢れています。
(注a)「欲張りな犬・肉をくわえた犬」…ある犬が大きな肉を手に入れ、橋を渡って家に帰ろうとしていました。橋の上から下をのぞくと、きれいな水面に、自分の姿が映りました。犬は水面に映った自分自身の姿を他の犬の姿と勘違いしました。しかもその犬がくわえている肉は、自分の肉よりも、もっと大きくおいしそうに見えました。犬はそれが欲しくなり、水面の犬に向かって吠えかかりました。その瞬間、口から肉を落としてしまい、くわえていた肉も水面の肉も二つとも失ってしまいました。
(注b)関東大震災時に起きたデマ報道…1923年に起きた関東大震災時、人々は極度の不安と恐怖にさらされていました。そんな折、「朝鮮人の暴動が始まった」「井戸の中に毒を入れられた」(当時、水は井戸を使っていた)などのデマが広がりました。新聞社もそれを報道し、罪なき多くの朝鮮人が殺されるなどの悲劇が起きました。
言葉や思想や宗教は すべて私たちと同じ人間がつくったもの
信じることが生きる上で最も大事な行為の一つであることは理解できたと思います。信じる対象を形にし、わかりやすくしたものが、言葉であり、シンボル(イメージ像)です。それらが体系化されたものが書物となり、文学になり、思想・哲学となり、宗教になりました。すべて人間がつくった言葉の集まりであり、考え方でありシンボルです。キリスト教のイエスやマリア像はシンボルの象徴であり人が作ったものです。日本の各種仏像も人が作ったシンボルです。神社は「学問の神」「縁結びの神」「金儲けの神」など根拠のあいまいなものを言葉でシンボル化し、知恵のある人が作ったものです。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」(当たりはずれは半々という意味)です。聖書も伝道師が語ったものを「○○伝」などに、誰かがまとめたものです。仏教の経典は、すべて釈尊・ブッダの言葉を、経典結集として多くの弟子が討議・精査しながらまとめたものです。いずれも私たちと同じ人間、その中でも特に知に優れた人たちが作ったものです。
信じる対象の正誤の基準は 理論性、科学性、実証性(エビデンス)にある
科学は見えない物理世界を対象にし、そこに法則を発見します。天文学、ニュートン力学、光の波と粒子説、量子力学など、見出した法則が真理なら、その法則を活用すれば結果が出ます。私たちの生活に電気やガスや光、建物、各種電気製品、食品、各種産業や工場生産物、パソコン、スマホ、すべて物理科学の発見とその活用によってもたらされる利益です。見えない生命現象の物理的側面の働き(法)を発見したものが科学であり、私たちの生活を潤してくれています。
他方、見えない心の働きを言葉やシンボルにしたものが思想であり、宗教や文学や各種の学です。宗教の開祖は見えない世界のなにものかに、啓示(インスピレーション・ひらめき)を受けたなどと言います。客観的に言えば、その人のある時のイメージやひらめきを言葉にしたものにすぎません。ひらめきやインスピレーションは、長く人生を生きていれば、誰でも一度は感じるものです。私も12歳のとき、自分の存在に対してのインスピレーションを感じました。その体験は今でも鮮烈に心の中に存在しています。現在は、朝方に生命現象や心についてのひらめきが訪れ、そのひらめきを言葉にしてブログに載せています。
大事なことはその言葉の集まり・宗教・思想に科学性があるかどうか、高い論理性や実証性があるかどうかが問題になります。アインシュタインは生まれながらキリスト教の神を信じていましたが、ダーウィンの進化論を読んで、キリスト教の思想に疑惑をもち、スピノザの提唱した汎神論(注1)を信じたと述懐しています。
(注1)汎神論…スピノザの汎神論は、「神即自然 (Deus sive Natura)」という言葉に集約される思想で、神と自然・宇宙が同一であり、神は人格的存在ではなく、万物がすべて神の属性として必然的に存在するという考え方です。これは、神が世界を超越するのではなく、世界そのものの中に内在しているとするもので、すべての事象は神の無限の属性から必然的に生じるとされます。 万物や人間の中に仏性(創造、智慧、慈悲の性分)という働きを悟ったブッダの思想と近似しています。
私たちは、信じることなしに一瞬も生きていくことはできません。私たちにできることは、何を信じるかという選択があるだけです。信じる対象が利益をもたらすものなのか、不利益になるのか、幸福につながるのか、不幸をもたらすものなのか見きわめ、選択することだけなのです。思想・宗教はとくに見極めないと危険性をはらんでいます。カール・マルクスは、そのことを「宗教は民衆のアヘン」と批判しました。
(注2)「宗教は民衆のアヘン」…カール・マルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」の一節。すべての宗教をアヘンと言ったのではなく、当時のキリスト教社会を見て批判した言葉です。苦しい現実を忘れるように神を信じ、神に身をゆだね、何ら考えることもなく、現状を変えることもしない無気力状態の人間を作る思想宗教をアヘンと言いました。
心に太陽を持て
心に太陽があるかどうか、それは比喩です。心の持つ可能性をたとえたものです。有名な言葉で「心に太陽を持て」(ドイツの詩人、シェザール、山本有三訳)があります。日本の鎌倉時代の仏道修行者、連長は、法華経を宣揚し、立宗宣言を機に、日蓮と改名しました。日は太陽を指し、連は幸福になる本当の因ということであり、心に太陽を昇らせるという意味にもなります。日蓮の宗教・法華経は太陽の宗教(付録1)と言われています。
この太陽は比喩的表現ですが、それを信じて人生がよくなり、明るく前向きに生きるようになり、幸せになっていければ、立派な実証性を持つ言葉と言えます。今日まで、心の太陽という人間の可能性を信じて多くの人が人生を前向きに生きるようになりました。この言葉には実証性があると言えます。多くの自然は比喩を使って私たちを覚醒させてくれます。心が浄化されれば、自然現象の比喩が悟れるようになります。自然は慈悲と智慧の宝庫だからです。私たちも自然の一部であることを忘れてはなりません。
人間の苦しみは 言葉を知り それを記憶することから深くなった
人間は自然のうちで最も弱い一本の葦(あし)にすぎない しかし、それは考える葦である(注3)
苦しさを感じ、生きるか死ぬかなどと考えるのは、言葉を持つ人間だけです。動物も植物もそのようなことは考えません。例えば事故などで脳の大脳皮質の思考野などを損傷すれば、生きる苦しさなど考える思考が活動しなくなり、植物的生命状態で生き抜くことになります。その場合、人は動物的生に近くなります。動物は、情動反応としての意識はありますが、思考することはほとんどなく、快・不快の本能的反応が中心です。しかし、人間は、不快や恐怖や苦を言葉によって増幅させ、反復させ、いたずらに苦しみます。自分が自分の嫌な言葉を受け入れ信じてしまっているからです。
(注3)葦(あし)…水辺に生える植物で風に弱く、容易に倒れてしまうことから、人間の肉体的弱さやもろさを象徴しています。しかし、人間は、他の動物にはない思考力を持つため、自分の弱さを自覚し、宇宙の大きさを認識し、死を意識することができる、という点が強調された哲学者パスカルの名言です。
自分と意識できるは記憶の働き
「われ思うゆえに我あり」とデカルトは言いました。思考し、それらを意識するために、自分は自分だと確認できます。考えることで、人間だけが自己認識できるのです。しかし、考えるために、人間は悩みと苦しみを引き受けることになりました。反面、思考することで人間は進歩発展し、物質的に豊かな生活を送ることができるようになりました。思考するという人間に与えられた特権をどう使うかが重要になります。思考は言葉によってなされます。
言葉は過去の記憶化された知識ですが、言葉には心の思いとしての感情が伴います。それはAIにはない人間独自のものです。苦と感じるのは、知識・言葉よりも、それと一緒に生起する感情です。正確に言えば感受反応(感情と表現している)を言葉で置き換えることによって、その感覚が鮮明化されます。AIには感情はありません。正確な電気信号による言葉があるだけです。苦からの解放は、感受したものを、どのように流すかにかかっています。人間は思考する感情の動物です。波のように生まれた感情のエネルギーは、他のエネルギーに転換されてゆくのを待つしかありません。それは、今の感情に支配されている意識を他の対象に置き換えることで可能になります。マインドフルネス(付録2)は、このことの修得を教えてくれています。
意識の転換とはエネルギーが向かう対象を意識的に替えることです。例えば、怒ったとき、対象から距離を取ることで、怒りを緩和させることは、よく知られています。しかし、対象を替えても、エネルギーのもつ余波はすぐに変わるわけではありません。視覚に残像が残るように、五感覚で感受したものの余情や余韻が自然に消えることを待たなければなりません。一度起きた湖面の波が消えるのを待つしかないのです。 それを感情の受容と言います。
強い刺激は 頭の中を ぐるぐる巡り 呪縛のように 苦を深める
強い刺激とは、前述した本能行動と関係しています。一番強い刺激は、自らの身が危機に瀕する時に生じる、恐怖と怒りです。恐怖場面に出遭ったとき、人も動物も、逃走か闘争かの二者択一を迫られます。闘争の場合は、対象に対して激しい攻撃的怒りを発します。逃走の場合は恐怖に支配されます。その恐怖感は深く心に刻まれます。闘争の場合も攻撃感情としての瞋り(いかり)が心に残ります。そして、何かあるたびに心に浮かびあがり、自らを苦しめます。その心的状態をトラウマ(心的外傷)と表現することもあります。
この繰り返しが頭の中で起きる現象を反芻(はんすう)思考・ぐるぐる思考と呼んだりします。心を病んでいる人に多く見られる心の働きです。また、強い刺激には快刺激も含まれます。刺激に伴う快感の強さは心に深く刻まれ、やはり頭の中を巡り、何かに触れて思い起こされ、行為を繰り返します。いわゆる依存症です。アルコール、ギャンブル、性的なもの、ゲームやスマホ依存などが加速し、世の中の多くの人たちが依存症になっていると言われています。それは世の中に快適刺激が満ち溢れているからです。人間は快を求め不快を避ける動物であることを忘れると、心身のバランスを失い病んでゆきます。
ぐるぐる思考は、記憶の働きがある限り、だれしもが経験するものです。ただ、その思考のため生活に不自由を感じ、頭の中を常に巡り、頭から離れない思考を病的思考と呼んでいます。侵入思考、自動思考、強迫観念とも重なる心的働きです。それは、ある時のある出来事が記憶され、反復することにより強化され、その記憶が無意識層に潜在、堆積されているからです。そこから 波のように何気に起きてきます。制御が難しいため苦しみます。
しかし、忘れてはいけないことは、「やけどした子が火を恐れるようになる」とあるように、恐怖体験は身を守るための自己防衛本能の働きであるということです。苦は向き合い方によって、人間を大きく成長させてくれるかけがえのない薬になるということです。「苦に徹すれば珠になる」とは文豪、吉川英治の言葉です。また、逆境こそ教師と言った偉人もいます。
生きることは空模様に似ている 雨の日もあれば晴れの日もある
生き続けていれば、よいことにも出遭えます。人生は空模様と似ています。いつも晴れではありません。雨や雪そして嵐であっても、いつまでも続きません。台風も一週間もすれば通り過ぎます。暗雲が垂れ込め重苦しい空模様の日でも、雲のかなたには太陽はいつも輝いています。目で見えなくとも、心を働かせば輝いている太陽を描くことができます。同じように、どんな辛い苦しみも、いつまでも続きません。空模様と同じです。そして見えなくとも心には、いつも太陽という無限の可能性が存在しています。空のたとえが教えてくれるものを信じて、今を耐え、今日を生きるようにします。今日、しなければいけないことをします。今をとにかく生きます。そうすれば空模様が一定でないように、心模様も変わっていきます。だから、人は生きていけるのです。「冬来りなば 春 遠からじ」(ドイツの詩人シラーの言葉) 冬は苦を象徴し、春は希望であり、楽を表しています。
筆者の苦しみ多き青少年期
楽しいことより苦しいこと、辛いことのほうが多いのが人生の真実です。生きる、それは苦しみとの闘いです。なぜなら、生きることは常に新しい出来事・変化を経験することだからです。新しい経験であるため、うまくいかないことは当然なのです。うまくいかないと人は苦しさを感じます。私の過去を例に話してみます。六歳で母親と死別しました。兄弟7人、10年の間に7人ですから、ほとんど年子状態です。父親は寂しさのためか、酒浸りとなり家に帰って来ず、子どもを放置した状態でした。私は小学3年から5年生の3年間、全く学校に行っていません。2歳年下の弟と食べ物を求め野山や畑や商店街などを放浪する乞食同様の生活を余儀なくされました。家には、布団がない、服がない、電気がない、年上の人たちからの暴力やいじめ、暴言、罵倒されたり、地域の人から厄介視されたりしました。
私が11歳になったころ、私たち男兄弟4人は、児童養護施設に収容されます。今と違ってその施設は、弱肉強食がものをいう動物的な世界でした。私がそこで学んだのは「力こそ正義」というものでした。私はひそかに身体を鍛え腕力と知識を身につけました。児童に自由はほとんどなく、食べ物も粗食、量り飯、休みの日は奉仕作業という名のもとの強制労働です。職員も児童に平気で暴力をふるっていました。現代の刑務所より劣悪環境で、地獄そのものでした。多くの児童の心は歪んでいったようです。中学3年生の始めの頃に、親父に引き取られ叔母の家に同居しました。思春期、青年期になると、私は自暴自棄になり横道にそれたり、自分の弱さや劣等を隠すために、高校では規律違反し、習得した空手技を使い、虚勢を張って生き、バイクで暴走し、同級生や教師からも一目置かれる学年一番の不良になっていました。しかし心は空虚で満たされず、ますます反社会的行動に走っていました。結果は高校退学です。
20歳の頃、人生の善き先輩と出会い、正しい人生、生き方に徐々に目覚め、生き方の方向がかわってゆきました。自活しながらの浪人・学生時代は、生きるとは何かなど、大学の勉強はそっちのけで、心、生命などを哲学しました。やがて、正しい思想哲学に出遭い、人の道を歩むようになっていきました。(拙著「失敗もいいものだよ」自伝的小説から)
苦悩の先に楽しさや喜びが訪れる
今日まで多くの苦しみに向き合い、生き抜くたびに楽しさを感じることもありました。苦を乗り越えた先に、人生の喜びを味わいました。だから生き続けてこれたのかもしれません。しかし、その楽しさもつかの間、また苦が訪れます。その繰り返しですが、苦を乗り越えてゆく度に、心が強くなり賢くなったのも事実です。そして、いつの間にか、苦しみの日々より、平穏な日が増えたような気がします。それは私自身の生き方が変った結果だと気づきました。生きる、それは苦楽であるということを先人は、「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」と訓えてくれています。それが、私たちの人生であり、生命の真実のありようかもしれません。
生きることは闘い 闘わないと滅びるのが動物種としての人間
生きる…それは闘いです。逃走か闘争か、それが動物種としての人間の本質です。動物は、子どもに生き抜く方法を教えるために、わが子を千仭の谷に突き落としたりして、生き抜くことを体に記憶させます。人間は、子どもの頃は親に保護されているので、あまり考えることはありませんが、一人前の大人に近づくにつれ、生きることを考えていくようになります。そして必然的に闘いの世界に投げ出されます。闘わないと滅びるしかありません。それが生きるということの真実です。善いとか悪いとかの問題ではなく、真実ですから、自分の生命を、どう生きていくかが大事になります。闘いに勝つ、つまり自分に負けないということで生き抜いていけます。
心の中の無限の希望、創造性、智慧を持つ太陽が存在することを念じ信じ続けること
負けない自分を作るためには、何よりも自分の可能性をあきらめず、信じ続けることです。私たちの心の中には無限の希望、光、創造性、智慧(付録3)を持つ太陽が存在します。その見えない太陽を念じ信じ続けることです。
そのうえで正しい信念、目標、勇気、忍耐、行動、そして希望が必要です。何よりも「正しい」ということが大事です。例えば、強盗する勇気とか、人を殺す勇気とかは動物的勇気であり、人間の道に背いているため間違った勇気になります。お金持ちになりたいと言うのは正しい目標とは言えません。お金持ちになって、恵まれない人たちの役に立ちたいというのは正しい目標です。正しさの基準は、自分だけが潤うのではなく、自分も他人も潤っていく、つまり、自他共存共栄の思想が正しい生き方の意味です。そのためには、正しい知識・思想が必要です。そうした生き方を模索したのが、過去の思想家であり哲学者であり、宗教家でした。そしてその道を極めたとされているの人たちを、聖人(注3)と呼んでいます。
注3、聖人…一般的には世界の主要な宗教や哲学の開祖を指し、孔子、釈迦、イエス・キリスト、ソクラテスの4人を指します。彼らはそれぞれの時代や地域で人々を導く教えを説き、人類の文化や思想に多大な影響を与え続けています。
付録1…太陽の宗教
釈尊・ブッダ(正法時代の仏)は、この宇宙の真理、生命の真実の法を悟り、40年間にわたって、その法を説いたと言われています。すべての生命的存在・人間には仏性が内在していると法華経で語りました。仏性とは宇宙や生命を創りだす無限の智慧と慈悲の働きを言い、その働きは誰かがつくったものでもなく、そのまま永遠に存在し、常に今を振動していると言います。生命は始めもないし、終わりもない存在、つまり「無始無終」「因果俱時」の振動と説きました。ニコラ・テスラは「この世で死んだ人はいません。なぜならエネルギーは不滅だからです。一つの形から別の形に移ったにすぎません」とインタビューで答えたそうです。つまり、彼は生命は永遠に「今」が続くと言いました。生命の持つ無限の可能性の働きを仏性と言い、人間の中の太陽にたとえています。末法の法華経の行者日蓮(末法の仏)の名前にも、その意味が込められているようです。
正法、像法、末法における三種の法華経と仏
釈尊は、「今」という瞬間の生命の振動に未来の法の流れである周波数の集まりを予言し、的中させています(大集経に収納)。正法(釈尊滅後の1000年間…釈尊の法で救われる時代、竜樹・天親などが出現し、生命の空(くう)や縁起を展開しました)。像法(釈尊滅後1000年~2000年の期間、釈尊の法が像(かたち)になり、読経が盛んになり、多くの寺が建てられる時代で、法華経が理論化されました。像法時代の仏、天台大師は「一念三千理論」を体系化させ、生命を分析し科学的に理論化させました。末法は釈尊滅後2000年以降、日本では平安時代後期、末法思想が広がった時代、末法には新しい法華経が拡がると予言されました。天台・伝教大師は、末法の仏は日蓮と予言しました。
この宇宙には三世に無数の仏が存在すると釈尊は法華経で語ります。仏とは、法華経の法を悟り、法華経の法で実際に多くの人を救済し、幸福にさせる慈悲の勇者と釈尊は語っています。法華経という正法に則れば、誰人も、どんな不幸な運命・宿業をもっていても転換でき、幸福になると断言しました。三世の諸仏は妙法蓮華経に生きること(妙法蓮華経にナムする、帰命すること)を教えたと言われています。仏性=妙法蓮華経は三世に変わらない今を呼吸する神秘なリズムであり、秩序整然とした周波数なのです。この神秘な創造的な周波数が私たちの心深くに脈打っているとブッダは説きました。それにリズムを合わせる行為が信であり、祈りであり、仏道修行であるとブッダは説きました。(法華経は妙法蓮華経の略称)
正法の法華経は、釈尊の妙法蓮華経28品、中でも方便品第2(諸法実相という難解・深遠な生命論が説かれている)と寿量品第16(生命の永遠性と無量の慈悲と智慧、功徳が説かれている)が肝心とされています。像法の法華経は、天台大師の「摩訶止観」一念三千論などの妙法蓮華経の生命理論。末法の法華経は、日蓮聖人の法華経です。「御義口伝」「三世諸仏総勘文教相廃立」・南無妙法蓮華経の題目です。今は末法です。日蓮聖人の法華経を実践修行するのが、時に適った修行になると言われています。
付録2…マインドフルネス
「今を集中して目的に向かって評価せず生きる」ということ。マインドフルネスの創始者はカバット・ジン氏です。彼は日本で道元の禅を修学されたと言われています。それを基本にしてマインドフルネスを展開されました。禅は、不立文字(ふりゅうもんじ)という言葉を大事にし、文字や言葉に頼らず瞑想し、自ら悟りの世界に入るという教えです。もともとブッダの法華経(正確には天台、最澄の法華経)を比叡山で修行した道元でしたが、入唐後、法華経から離れてゆき、独自の教えを展開してゆきました。指標に頼らない瞑想を中心に行いました。
「今」の自分が迷いと暗闇にある場合、指標のない瞑想を行うと迷いを抜けることができなるばかりか、迷妄は増すばかりとブッダは警告していました。ブッダは亡くなる直前に悲嘆にくれる弟子たちに「自ら(自分)と、法を頼りに生きなさい」と語ったそうです。その法はブッダが悟った生命・宇宙の真実の法であり、法華経(妙法蓮華経)そのものです。道元は主著「正法眼蔵」という書で彼の思想哲学をまとめていますが、亡くなる直前の日々は法華経の「如来神力品・にょらいじんりきほん」の一節を読誦し、住まいを「妙法蓮華経庵」と柱に書きつけていたと言われています。道元は最後、ブッダの根本の法華経を指標にし死を迎えたと思われます。
人間の意識できる世界はわずかです。例えば、私たちの身体を観察しても、「今」を意識できる身体感覚は1000分の1以下です。身体は無数の細胞で成り立ち、組織化され意識と関係なく動いています。消化器系、呼吸器系、循環器系、ホルモン、神経、脳、感覚器官などいくつもの組織化された系統があります。痛みや快という刺激が加わったとき、例えば「歯が痛い」と感じれば、その時、歯を意識します、おなかが痛くなると腹部を意識します。食べ物を食べておいしいと感じるとき、味覚を意識します。花を見て、きれいと感じた時、花を味わう心を意識します。また、心はどこからとも起こり、喜んだり、悲しんだり、落ち込んだり、落ち着いたりするなど意識と関係なく生起し流れてゆきます。意識はいつもほんの一部しか感覚したり思考したりすることができません。意識は「今」の一部しかとらえることができず、全体は感知できないのです。
カバット・ジン氏のマインドフルネスの卓越性は意識は全体を感知できない、部分しか感覚・思考できないと見抜いたところにあります。その実践は「ボディスキャン(身体観察瞑想)」に結実されています。ボディスキャンの実践で、部分と全体の違い、さらに部分と全体のつながりを悟った点にあります。その洞察は、ストレスの低減を可能にし、心身のリフレッシュをもたらします。彼のマインドフルネスは禅の学びから始まっていますが、独自の展開になっています。その独自性が世界に広まった理由だと考えられます。カバットジン氏の本物のマインドフルネスを学びたい方は、彼の主著「マインドフルネスストレス低減法」を読み、素直に実践すれば修得できます。
「今」の意識から、生命全体を覚知した人が釈尊・ブッダです。宇宙の真実の法を悟った人と言われています。ブッダのことを仏と言います。この宇宙には三世の諸仏が存在すると釈尊が表現したように、無数のブッダが存在します。「今」の瞬間の生命に脈打つ法こそ三世の諸仏・ブッダが悟った真実の法は「梵語で、サ・ダルマ・プンダリャ・ソタラン=漢語で妙法蓮華経になります。それを指標に「今」を生きることで、「今」の意味が分かるとブッダは語りました。「今」がわかれば、どんな苦しみも乗り越えられます。また「今」がわかれば、楽しく生きることができるとブッダは教えてくれています。「今」については、このブログでさらに考察してゆきたいと思います。
(付録3)…智慧…知識は過去であり固定化された物質的なものです。脳内の記憶の蔵に収まっている本のようなものです。いくら知識量が多くても変化し流れゆく現実の問題を解決する力にはなりません。学歴が社会で役に立たないと言われるのは、そこに原因があります。ですが、知識は物事の解決に必要であること間違いありません。問題を解決する場合の選択肢になるからです。
智慧は現実解決の力であり、柔軟性があります。問題解決力、対処力、処理力と言えます。現実の壁を乗り越える力であり、困難を超える力であり、人生を生き抜く力が智慧なのです。臨機応援の対処力が智慧です。ハウトゥーものは、あくまで知識ですから、実際の役に立たないことが多いのは、ここに原因があります。人間関係力は智慧によります。
知識より大事なものが智慧になります。それは現実生活の体験の中で知識を使い続ける経験と自省の中で身につくものです。自分や他人を高める有益な習慣力は智慧の結晶とも言えます。名門大学を出ても智慧のない人はたくさんいます。また中学卒の人の中にも豊富な智慧を持つ人はたくさんいます。人生で大事なものは知識より智慧であり、最も偉大な智慧は慈悲(他者の苦しみを抜き楽を与える行為)から生まれるとブッダは言いました。智慧は伝達できません、師・先生の下で修業し体得するしかないのです。仏道、芸術、武道、茶道、華道など各種の道、職人技の世界のように…。
〇筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部(一期生)在学中から、哲学、文学、天文学、思想、日本人の行動様式論、生と死の宗教(主としてキリスト教と仏教)、森田療法、フロイト・ユング深層心理学、認知行動療法、仏法生命哲学を研究してきました。深層心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学(中心は法華経)の関係性を重点的に研究し、実践しています。修行と学びの旅は今も続いています。