相談室(ブログ)

いじめ・パワハラ・暴力・戦争はなくなりません 人間の弱肉強食の本能行為だからです。 人間性を高める思想でしか防止できません。 

2026.01.09

私たちは感情を持つ思考マシンではなく、思考を持つ感情マシンなのだ。…アントニオ・ダマシオ(神経学者)  

いじめの極致は戦争です 

最近、高校生や中学生のいじめの動画がSNSで拡散され話題になっています。また、ロシアやガザ地区の戦争も収まらない中、アメリカファーストを掲げる強者トランプ大統領は、弱国ベネズエラを攻撃し、大統領を拘束し、罪もない無辜の民を100人以上殺したと報道されています。

これらの行為に、あなたは正義や人道を見ることができますか…弱肉強食の動物の本性そのものであり、私は、それらの行為に人間性を見ることはできません。いじめの極致です。もし、この宇宙に生命平等の法があるのなら、戦争で人を殺す人は極悪人と裁かれ、極刑に処されるでしょう。しかし、現実の世界は戦争で勝利する強者は帝国主義者の王様で、裁かれるどころか、英雄あつかいにする人も少なくありません。

悲しいことですが、それが世界の歴史の事実であり、「強者こそ正義なり」が現実世界の常道になっています。つまり、強いものが弱いものをいじめ、傷つけることは悪いことではないという考えにつながります。

こうした弱肉強食まるだしの極悪非道の殺人を伴う戦争より、大分の中学生のSNSの動画の暴力行為のほうを大騒ぎし関心を強めているのが日本の現状です。一方は大量殺人、かたほうは暴力、どちらもいじめに共通する弱肉強食の動物性の本能から発していますが、天地雲泥の差があります。人間は距離が遠くなると「対岸の火事」のように傍観者になります。本質を見ない傍観者がいじめを助長しています。家庭の中で親が、こうした戦争がいじめの極致であり、どれだけ人間性を低下させる魔の行為であることかを教えていけば、いじめの防止につながってゆくと考えられます。

いじめは、弱肉強食の愚かな人間の本能から起きる

動物でもやらない虐待やいじめや殺行為を、なぜ人はすることができるのでしょうか。そこには人に潜む動物性と魔性があります。それは、人がそうした行為をするとき、人間の良心が何かに乗っ取られ、支配されているからです。人でありながら人としての道理や倫理規範が全く消失しています。その時、人間は人間の皮をかぶった最悪の動物、魔物になっています。この世界で最も怖い存在は間違いなく人間と断定できます。

動物を超える残虐ないじめは 人間の知の産物

動物を超える殺行為や残虐性は人間の知の優越性にあります。殺人のための武器をつくり、原子爆弾をつくって自分や自国を守り、他人や他国を攻撃しようとします。動物の中の知的優者人間が地球の動物を支配しています。どんなきれいごとをいっても弱肉強食の動物性に基づいた行為、それが見境なく人殺しをする戦争であり、いじめです。そして被害者は弱者の子供や女性や立場の弱い人たちです。最悪は、こうした大量殺人する強者は、誰も裁くことができないという現実です。国連も絵に描いた餅にすぎません。誰も止めることができていません。今日まで、多くの人々は、その防止を神に祈り、偉大なる神の力の発動を願ってきましたが、未だにその福音は地上もたらされていないようです。

いじめという悪と戦う正義の勇者も同じ人間

それを止められるのは、やはり人間なのです。歴史上でも、その悪魔性の人間に立ち向かった人は数多くいます。「走れメロス」の勇者メロスも、臣下を簡単に殺す暴君と戦います。しかし、あくまで作者の願望であり理想世界の表現にしかすぎません。最近の人では、アメリカのキング博士、インドのマハトマ・ガンジーなどが有名ですが、いずれも凶弾に倒れました。また数多くのデモ行進も正義を訴えた行動ですが、権力者の武力によって鎮圧されています。

悪の野蛮性が勝つか、人間の善性が勝つか、この世界は常に死闘なのです。正義がなくなれば、この世は悪の支配する暗黒の世界になってゆきます。第二次世界大戦下の日本やナチスドイツ支配下の世界などが、まさに暗黒の闇の恐怖に凍りつくような世界だったと思います。そうした世界では野蛮ないじめが横行し、人間が同じ弱い立場の人間をおもちゃ扱いにしたり、平気で殺したりしてゆきます。私たちは今、ベネズエラやウクライナやガザ地区の子どもたちや女性などに、その悲惨を見ています。同じ人間として、心が痛くなり、涙が止まりません。

人間も弱い動物を殺し食べる畜生の心身をもっている

どんな人も、自分は動物性を持っていると自覚することが、いじめ防止の第一歩になります。人間も動物の一種です。生きるために、食べる、寝る、生殖活動をするという本来的能力が生まれた時から遺伝子に組み込まれています。生きる為には身を保たなくてはなりません。食べ物を確保するために、肉食動物は弱いもの見つけ、殺して食べます。生きる為に遺伝子に組み込まれた殺本能です。

動物種の人間も弱い存在を傷つけたり殺したりします。どんなきれいごとをいっても、同じ動物種でありながら、私たちは、間接的ですが、弱い動物をいじめ、殺して食べています、豚、牛、鶏、羊、馬、魚など…。牛や豚などは、殺される前に強い恐怖を感じ泣き叫びます。情(神経による感覚反応が動物には具わっている)があるから恐怖に苦しみます。その恐怖心は人間も豚や牛も同じです。

真の仏教者(注1)が肉食をしなかったのは、動物を損傷し、恐怖や苦を与えることが生命の法則から見た悪行だと知っていたからです。しかし、私たちは生命の真実の法を知らないから、平気で、「おいしい」と言って食べることができます。

(注1)真の仏教者…この宇宙の真実の生命の法を覚知し、その法で人々に影響を与え、実際に多くの人を救済した慈悲の行動者のこと。仏教史上では、釈尊(ブッダ)、竜樹、天親、天台、最澄、日蓮などと言われています。生命の真実の法によると、有情(神経を持つ存在は恐怖と苦を感じる)の殺行為は悪の一つとされています。悪とは、他者を損傷し、恐怖や苦しを与える行為です。仏法生命論からみれば、他者の損傷は自らの生命の損傷に還ってくるという原理(依正不二の生命論・付録1)から、やがて自ら苦しむ結果をもたらすと説いています。

強い国は弱い国を平気で攻め、それが自国の正義であるかのような感覚で多くの人を殺します。「自国ファースト」とか言って、大量に人を殺します。その時、人は人ではなく、ものとみなされています。同じ人間だという自覚があれば、どんな状況であっても人を殺したり、いじめたりはできません。いじめやその極致である殺人は、人をモノとみることで行われます。人をモノ化してみることを人間の魔性(注2)(奪命者)とブッダは洞察していました。

(注2)人間の魔性…仏法生命論によれば、魔は「第六天の魔王」(付録2)と表現され、誰人の生命にも潜在する働きと言います。「魔がさす」というのもその働きの一部です。第六天の魔王は欲望世界の頂点に君臨し、別名「他化自在天」(たけじざいてん)といいます。つまり他者を自由に支配し、もののように扱う働きです。人間の欲望の頂点の一つは権力です。権力者はこの他化自在天に操られやすくなります。だから、多くの人を殺すことができます。それは今も歴史も証明する事実です。

人間としての思いやりと慈悲心がいじめを防止する

「己の欲さざることを人に施すことなかれ」(自分のしてほしくないことを、人してはいけない)孔子の論語に収められたこの言葉は中高時代に学んだ一節だと思います。どんな状況下にあっても、この言葉の内容が実行できれば、いじめはなくなりますし、戦争もこの世界から消滅します。弱肉強食の愚かな畜生性を持つ人間性を克服するのは、同じ人間と観る平等感から発する人間としての思いやりのこころであり、慈悲心です。しかし、知識だけではいじめは克服できません。道徳教育で防止できていない現実を見ればわかると思います。もちろん、道徳教育も一定の効果は発揮している思いますが…。家庭教育、学校教育、社会教育、環境教育、生命教育という総合教育とその実践の中に培われる高い人間性の修得過程の中で培われる智慧(注3)が鍵になるからです。人格者はいじめも殺人もしません。

(注3)智慧…知識は過去であり固定化された物質的なものです。脳内の記憶の蔵に収まっている本のようなものです。いくら知識量が多くても変化し流れゆく現実の問題を解決する力にはなりません。学歴が社会で役に立たないと言われるのは、そこに原因があります。ですが、知識は物事の解決に必要であること間違いありません。問題を解決する場合の選択肢になるからです。智慧は現実解決の力であり、柔軟性があります。問題解決力、対処力、処理力と言えます。現実の壁を乗り越える力であり、困難を超える力であり、人生を生き抜く力が智慧なのです。臨機応援の対処力が智慧です。ハウトゥーものは、あくまで知識ですから、実際の役に立たないのは、ここに原因があります。人間関係力は智慧によります。いじめ防止にも智慧が必要です、知識では止められないからです。知識より大事なものが智慧になります。それは現実生活の体験の中で知識を使い続ける経験と自省の中で身につくものです。自分や他人を高める有益な習慣力は智慧の結晶とも言えます。名門大学を出ても智慧のない人はたくさんいます。また中学卒の人の中にも豊富な智慧を持つ人はたくさんいます。人生で大事なものは知識より智慧であり、最も偉大な智慧は慈悲(他者の苦しみを抜き楽を与える行為)から生まれるとブッダは言いました。

怒りがいじめや殺人を引き起こす

自分の思うようにいかない時に発する怒りがいじめや殺人につながります。人間は簡単に怒りに良心を乗っ取られてしまいます。怒ると人間は冷静さを忘れ、最悪の場合、他の生命を破壊したり殺したりします。怒りは破壊につながる怖さを持っています。

 しかし、相手が自分より強い人や立場が上の人に対しては、その怒りを出すことができません。自分の心の中にしまい込み、その怒りを出せる相手を見つけた時、自分より弱い立場の人にぶつけます。世に言う「八つ当たり」です。虐待は強い立場の親が弱い立場の子どもに向けられます。いじめも相手が自分より弱い立場にあると認識する時にできる行為です。その心は弱肉強食の畜生性ですが、「集団で一人の弱い立場ある人を卑劣なやり方で攻撃する」「幼児に熱湯をかける」などの過剰なやり方の残酷さは畜生以下の生き物というしかありません。人間にはなまじっか「知」があるから、残虐性も他の動物より酷くなります。ブッダは怒り(瞋り)は地獄をもたらすと言いました。

 子どもが思い通りにならず、一晩中泣き叫ぶ場合でも、虐待する人としない人がいます。その分かれ道はどこにあるのでしょうか。いじめも同じです。加担する人としない人に分かれます。それは人間性で決まります。 人生の中で心にしっかりと積んだ徳。弱い立場の人を守る、弱い立場の人を攻撃しない、自分が強い立場にあるだけで、相手にとって脅威の存在になっているということを自覚している人は虐待したり、人をいじめたりしません。 その根底には人としての正しい思想があります。自分も相手も、たとえ子どもや赤子であっても痛みや喜び感じる同じ人間存在であるという知を持ち、怒ったときもそれを思い出し、行動を抑制できます。それを智慧と言います。

 こうした抑制力は環境の中で培われます。特に家庭環境に強い影響性を持つ親の存在は大きなものがあります。親の行動や声や言葉は、子どもの五体、毛穴からも染み込み、子どもの心に深く入り、子どもの思想を形成します。 虐待の連鎖、虐待は親から子に伝わるとは、このことを指しています。世にいう「アドルトチルドレン」とか「インナーチャイルド」とか「機能不全家族」とか「毒親」いう言葉は、これらを指しています。 いじめの場合は、本人にかかっているストレス解消などの要素があります。 

 しかし、虐待された子どもが、虐待する親に必ずしもなるわけではありません。連鎖の中に入るのは、ごく一部というが正確な事実です。私は、多くの虐待する親と、その子どもを見てきましたが、比率からすると、連鎖は3割以下といってよいでしょう。中には、虐待を受けた子どもが、自分の体験から学び、同じことを子どもにさせたくないと、立派な親になっている人も見てきました。一方、虐待の親よりも進化して、ひどくなる人もいます。その違いは、どこにあるのでしょうか。

 ここが一番の重要な難所です。専門家もここが解けないので、適切な手立てが組めていないのが現状です。人が育っていく要因には、家庭環境要因、学校環境要因、社会環境要因、人的環境要因、素質的要因などが微妙にからみあっています。一つだけに特定すると部分観に陥ってしまいます。物であれば部分観が通用しますが、人間は常に全体という調和の中で生きているから部分観では解決できませんし、そうした部分の分析知では、間違いすら起きてしまいます。

生まれながらの差異や違いをどう昇華させてゆくかが大事

 これらの要因の中で大事なのは、人的要因と素質的要因です。なかんずく素質的要因が大事になります。これは心の深層と関係している難問であり、あらゆる病気や悲劇の要因の一つです。なぜ難問なのか、それは不可思議な生命そのもの真実性の解明が求められるからです。0,21ミリ程度の精卵細胞に全ての種子が内在している事実は不思議というしかありません。ここにはあらゆる生命の持つ神秘性が隠されています。

 つまり生命誕生のなぞと死後の生命のなぞ、そしてその二つをつなぐ生命の一貫性の謎です。今生きている生命が死後どうなっていくのか、今の生命が五つの感覚(眼・耳・鼻・舌・身)と意識という肉体を通して顕在する働きの感受と認識を失ったとき、つまり肉体の死=死ですべてが終わるのか、それとも記憶を貯蔵していた脳は焼失しますが、無意識層に蓄えられた行為の全体が心法(注4)として死後も潜在して続き、今の生と似たような環境を得て顕在化するのが、この仏法生命論の見解です。3000年前、インドの菩提樹の下での釈尊の哲学的悟りは、「自身の我(が)は永遠である」「自身の我は、何ものかに作られたものでもなく、我は永遠の昔から存在し、永遠に続いていく」「自身をつくったのは自身の内なる法…サ・ダルマ・プンダリキャ・ソタランである…名訳者が翻訳=妙法蓮華経」というものでした。この哲学的悟りから東洋思想・東洋哲学・東洋医学は発展したと言われています。

(注4)心法…見えるかたちや肉体を支えている見えない、分析できない働きをいう。魂とか霊魂などという皮相的な言葉では表現できない働き性質を持つもの。私たちの体は、脳や神経、各臓器、血液、ホルモン、リンパなどが調和統合されて生を保っています。その調和、統合している働き、また肉体そのものを動かしている働きを心法と言います。意識ではありません。意識は心法のごく一部の働きにすぎません。生きているときは、肉体と心法は一体ですが、肉体がなくなったあとは心法は冥伏(みょうぶく)・潜在し、「空・くう」の状態で、心法は永遠に続きます。自分にふさわしい形(肉体)を見つけて再び顕在します。今世の生き方の「心法」が来世も続きます。畜生性の強い生き方をした人は来世は畜生のかたちを得、人間らしい生き方をした人は人間の形になるとるなどとブッダは法華経比喩品で説きました。それを自業自得と言います。「今まで死んだ人はいない。エネルギーは不滅だからです。一つの形から別の形に変わったにすぎません」と物理学者ニコラ・テスラは言いました。心法をエネルギーととらえるとわかりやすいかもしれません。

 飢餓感に似た欲望に支配された時、人は人を損傷したり殺したりする

飢餓感に襲われ、それをはやく満たそうとするとき、人間は、見境なく欲望を達成するために対象に一直線に向かいます。思い通りにするために他者を利用します。相手が同じ人間であることなど、自分の欲望達成のためには毛頭も考えません。相手を傷つけても平気な精神状態になります。痛みも感じません。だから虐待やいじめが平気でできるのです。窃盗、強盗、ストカー殺人の原因はここに潜んでいます。その本質は「貪り」の生命とブッダは洞察しました。

 以上の三つの人間の持つ悪魔性(畜生性のもつ愚かさ、貪り=むさぼり、瞋=いかり)を調整できれば虐待やいじめは防ぐことはできます。

付録1「依正不二・えしょうふにの生命論」…「依」は依法で正法を取り巻く環境世界、「正」は正法で主体、自分という意味です。その二つは二つに見えますが常に同時に出現するという考えです。自分は一方は自分という主体、一方は環境という主体の影のような存在です。主体が曲がれば影は曲がります。主体がまっすぐであれば、影もまっすぐになります。この生命論は変革の原理と言われています。つまり、主体の自分が変われば環境も変わります。私は、人生の中で、何度もその哲理の真実を実感しています。近い言葉に身土不二があります。

付録2「第六天の魔王」=他化自在天(たけじざいてん)。人間生命の欲望の頂点に存在する生命の働きを言います。人間を含めた宇宙の生命現象は破壊性と創造性の二つで織りなされています。それは生と死という現象で説明できます。どちらも生命の持つ二面性であり、もともと具わっている働きです。闘わないと破壊性・魔性にこの世は支配されるとブッダは達観され、生涯、人間性の魔性と戦い抜かれたと言われています。魔性に勝てるのは生命内在の仏性・(仏の働き=創造性・蘇生力)しかないとブッダは言われました。

筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部(一期生)在学中から、哲学、文学、思想、日本人の行動様式論、生と死の宗教(主としてキリスト教と仏教)、森田療法、フロイト・ユング深層心理学、認知行動療法、仏法生命哲学を研究してきました。深層心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学(中心は法華経)の関係性を重点的に研究し、実践しています。修行と学びの旅は今も続いています。