相談室(ブログ)

心の病を治す万能薬は、「今」を悟る智慧にあります。それは、心を自由自在にします。  

2026.02.10

 今とは、私たちの心です。その心に、過去も未来も、病も健康も、自由も不自由も、美も醜も、利も害も、善も悪も、貧も富も、苦も楽もあり、あらゆる環境を包み、智慧に満ち、慈悲の宇宙があります。今とは永遠に存在する私たちの我の流れであり、無量無辺の混沌とした振動であり、調和された周波数の集まりです(注1)。今とは森羅三千諸法の智慧の光(注2)です。しかし、私たちの意識は、「今」の一部しか感じることができません。なぜなら心は、煩悩(注3)で染色され、闇に閉ざされ、不自由になり、智慧の光を享受できないからです。結果、苦は多く、楽は少なくなります。「盲目であることは悲しいことです。けれど目が見えるのに、見ようとしないのは、もっと悲しいことです」(ヘレン・ケラ…「三重苦は世界を照らす」)

 ニコラ・テスラは言います。「今、存在しているすべてのものは、光の無限の形象の表現です。なぜならエネルギーは存在より古いからです。そしてエネルギーによって、すべての生命は織りなされたのです。これまで存在したあらゆる人間は死ぬことはありませんでした。なぜなら、今の私たちのエネルギーは永遠だからです」(交流電気発明者、発明家・詩人)

 今という私たちの我は、生じるのでもなく、滅するのでもなく無始無終です(注4)。 波が上下に運動するように永遠の昔から振動を続け、独自の我の周波数を持ち、波動しています。一つの波が海全体を含んでいるように、今の我の振動は、宇宙全体を呼吸するようにつながり流れています。

 今とは、私たちの我のエネルギーの表現です(注5)。エネルギーは姿かたちを変えながら永遠を生きます。無量の過去も、無限の未来もすべて今にあります。今の我の苦しみは過去に原因し、未来の楽しさは今をどう生きるかで決まります。生命の因果は俱時であり、苦楽は不二です。それを妙法といいます。因と果は同時に存在し、苦楽は生命の明暗という二つの表現です。

 たとえを借りて表現するなら、私たちがこの世に誕生したときの0,2ミリ程度の精卵細胞という種子(因)に、50㌔を超す身体、顔かたち、思考する能力、性格などの果が同時に存在しています。これに対して、物理の現象世界の因果は異時です。因果異時は、時間の流れがあって結果が出るとする考え方です。因果俱時の不思議な一法を諸法実相(注6)とブッダは悟りました。その宇宙の真理の法は、今も私たちの我の中に流れ続けています。なぜならブッダの悟る以前から、真理の法は存在し、永遠に今を生き続けるからです。 

(コラム) 仏法生命科学論…森羅万象、万物、自然、生物、宇宙のあらゆる現象は法で織りなされています。すべての現象をブッダは覚知しました。これまでの科学は、その生命現象の物資的側面の部分部分を原子・素粒子・電磁波などを分析し解析し、その中に法を発見することに成功しました。その発見された法で生活を利益しています。真実の法の発見は価値を生みます。これに対して心の法、生命の法はブッダが覚知、発見したと言われています。科学が発見した法は宇宙・自然・生命現象の部分部分の発見です。そしてそれらの発見を継承し積み上げて、さらに新しい発見につなげてきました。科学は帰納法を基本にしています。ヒポクラテス、ピタゴラス、パスカル、アルキメデス、ガリレオ、コペルニクス、ニュートン、ハイゼンベルグ、アインシュタイン、エジソン、パスツール、ニコラ・テスラなどの数多くの科学者たちは、いずれも宇宙・生命の法則の一部の発見者です。それに対してブッダの発見は宇宙の法の全体、つまり生命の真理の発見と言えます。

 ブッダの発見は直観智によるもであり、科学的帰納法に対して、演繹法と言われています。現在の諸科学が徐々にブッダの悟った法の正しさを証明しつつあります。仏法は生命科学です。その法を正しく実践すれば、あらゆる心病は治り、すべての人は、心の自由を獲得し、心の富者となり、崩れない幸福境に至る(衆生所遊楽…生命は本来、今を障りなく、楽しく、自由に「振動」し、生きている)とブッダは断言しました。大事なことは、ブッダの悟った真理の法とは何かということです。ブッダとは宇宙の真理を悟った人のことですが、この宇宙には無数のブッダがいると釈尊(釈迦)は言いました。宇宙真理の法は、言葉で表現できないものですが、比喩としての言葉を使うしか伝えられません。難信難解ですが、ブッダの悟りを、以下にひも解いてみたいと思います。(衆生所遊楽…出典は法華経如来寿量品)

 今を集中して生きるというマインドフルネスが流行している

 マインドフルネスの影響もあって、今を集中して生きるという言葉が流行っています。心理学、健康学、企業研修や教育の世界でもマインドフルネスは盛んです。テーマは「今を、評価せず、目的に向かって、集中して生きる」ということです。実践することで、以前より集中力が増したという声はよく耳にします。ポイントは、「今を評価しない」ということです。

 これはとても難しいことです。なぜなら私たちは過去の記憶で生きているからです。その記憶は雑念となり、雲のように意識に立ち現われ、自動的に心の流れを支配し、今の生を支えています。また、今の意識は五感覚で受ける多数の情報にさらされ集中できません。この過去の記憶の流れと五感覚が受ける無量の情報が、「今の評価」の正体です。評価せず、集中するとは、これらの意識活動を一旦とめることになります。それは、修行であり、とても至難なことです。マインドフルネスに、修行による修得が求められるゆえんです。よくよく考えてみると、今とは何かが、誰もわかっていませんし、説明できていません。だから、「今を生きる」ことを理解することが困難になります。マインドフルネスの創始者はカバット・ジン氏です。彼は日本で道元の禅を修学されたと言われています。それを基本にしてマインドフルネスを展開されました。しかし、彼は今を深くは掘り下げてはいません。

 マインドフルネスはカバット・ジン流の禅の新展開

 禅は、不立文字(ふりゅうもんじ)という言葉を金科玉条にし、文字や言葉に頼らず瞑想し、自ら悟りの世界に入るという教えです。つまり、今を過去の言葉で評価せず生きるということです。道元は、もともとブッダの法華経(正確には天台、最澄の法華経)を比叡山で修行しました。しかし、宋に留学し、心身脱落を悟ったことを機に、法華経から離れ独自の禅を展開してゆきます。自分の意識が頼りであり、指標(言葉の評価、記憶)に頼らない瞑想を中心に行いました。今の自分が迷いと暗闇にある場合、指標のない瞑想を行うと迷いを抜けることができないばかりか、迷妄は増すばかりとブッダは警告していました。

 ブッダは亡くなる直前に悲嘆にくれる弟子たちに「自ら(自分)と、法を頼りに生きなさい」と語ったそうです。その法はブッダが悟った生命・宇宙の真理であり、法華経で説かれれています。道元は主著「正法眼蔵」という書で彼の思想哲学をまとめていますが、亡くなる直前の日々は法華経の「如来神力品第二十一・にょらいじんりきほん」の一節を読誦し、住まいを「妙法蓮華経庵」と柱に書きつけていたと言われています。道元は最後は、ブッダの根本の法華経を指標にしていたと思われます。カバットジン氏のマインドフルネスは禅を入り口にしていますが、出口は全く異なったものになっていると私は思っています。つまり、独自の禅の展開になっています。

カバット・ジン氏のマインドフルネスは部分と全体のつながりを悟った

 カバット・ジン氏のマインドフルネスの卓越性は意識は全体を感知できない、部分しか感覚・思考できないと見抜いたところにあります。その実践は「ボディスキャン(身体観察瞑想)」に結実されています。ボディスキャンの実践で、部分と全体の違い、さらに今、感じるている部分と全体のつながりを悟った点にあります。その洞察は、ストレスの低減を可能にし、心身のリフレッシュをもたらします。彼のマインドフルネスは禅の学びから始まっていますが、独自の展開になっています。その独自性が世界に広まった理由だと考えられます。カバットジン氏の本物のマインドフルネスを学びたい方は、彼の主著「マインドフルネスストレス低減法」を読み、信じて素直に実践すれば修得できます。真意がつかめていないのにわかったように講義している人もいるからです。

 20世紀最大の科学者も今を解明していない

 アインシュタインは「時間はない、あるのは今だけだ。時間は物質の変化にすぎない」と言ったそうです。私たちが生きているのは今だけだということを彼は言いました。しかし、その今とは何かは説明していません。大科学者にしても、今は究明できなかったのです。今とは私たち生命のことです。今がわかることは、この不思議な生命がわかることと同じことです。

 今と意識の関係…哲学者デカルトのとらえた我(われ)が今

今を感じることができるのは意識です。受信した感覚を鋭敏にし、言葉で考え、イメージし、行動に結びつける意識が今の入り口であり、今の一部分ですが、今の全体ではありません。デカルトの「我(われ)思う故に我あり」という言葉は、今考えている意識こそ、真実であるというのことです。それこそが自らの存在を確かにするものであると結論づけました。デカルトの論理的思考は、近代哲学の幕開けと言われています。今は意識の思考で成り立っているといっても、その意識とは何かが未だにわかっていません。わかっているのは、意識は脳を介して起きる心の現象ということだけです。

 私たちの意識は1000の1も今をとらえていない

 人間の意識できる世界は、わずかであり、意識には多くの障(さわ)りがあります。例えば、私たちの身体を観察しても、今を意識できる身体感覚は1000分の1以下です。身体は無数の細胞(約46兆という説もある)で成り立ち、組織化され意識と関係なく動いています。消化器系、呼吸器系、循環器系、ホルモン、神経、脳、感覚器官などいくつもの組織化された系統があります。痛みや快という刺激が加わったとき、例えば「歯が痛い」と感じれば、その時、歯を意識します、おなかが痛くなると腹部を意識します。食べ物を食べておいしいと感じるとき、味覚を意識します。花を見て、きれいと感じた時、花を味わう心を意識します。また、心はどこからとも起こり、喜んだり、悲しんだり、落ち込んだり、落ち着いたりするなど意識と関係なく生起し流れてゆきます。意識はいつもほんの一部しか感覚したり思考したりすることができません。意識は今の一部しかとらえることができず、心身(生命現象)全体をとらえることはできません。 

 今という意識の波から、今の生命全体という大海をとらえたブッダ

 今の意識から、生命全体を覚知した人が釈尊・ブッダです。生命の真理を悟った人と言われています。ブッダのことを覚者・仏と言います。この宇宙には三世に無数の仏が存在すると釈尊が表現したように、無数のブッダが存在します。今の瞬間の生命に脈打つ法こそ三世の諸仏・ブッダが悟った真実の法です。それを指標に今を生きることで、今の意味が分かるとブッダは語りました。今がわかれば、どんな苦しみも乗り越えられます。また今がわかれば、楽しく生きることができるとブッダは教えてくれています。なぜなら、今は如如・にょにょとして来る「如来」であり、法性(注7)だからです。

 ブッダがとらえた今は最先端科学の素粒子理論で一部を説明できる

 ブッダかとらえた今という生命現象に接近するためには、ブッダの悟りに肉迫するしかありません。ブッダの時代には文字表記はなく、すべて「如是我聞・にょぜがもん」(自分は、このようにブッダの教えを聞いた)という形で後世に伝わりました。ブッダの教えを正しく残すために、ブッダ滅後に数度の経典結集が行われ、500人以上の仏弟子が、ブッダの教法を吟味・精査し正しく残してきました。

 その教法は、インドの24人の付法蔵の正師によって1000年近くをかけて継承されてゆきます。そして中国の天台大師、日本の聖徳太子、伝教大師、日蓮聖人らに正しく伝えられてきました。何を継承したのか、それはブッダの志であり、慈悲であり智慧であり、真理の法です。そこに我見はありません。ブッダの核心の法は、「サ・ダルマ・プンダリャキャ、ソタラン=妙法蓮華経」、「空・くう」「12支縁起」『中観…空、仮、中の生命観」「唯識・ゆいしき」「止観・しかん」「一念三千理論」「色心不二」など「(注8)という生命科学理論を展開してゆきます。その理論を理解すれば「今」が解明できます。それぞれが難解ですが、深層心理学をはるかに凌駕し、最先端の素粒子理論がブッダの理論(空や縁起の理論…観察すると動く、ひも理論など)を一部証明しつつあると言われています。

 ブッダが直観智した世界は、事物、物事の言語を超えたありのままの宇宙の諸法です。それは振動であり、周波数であり、音色であり、波動であり、音楽であり、慈悲であり、エネルギーであり、無量の智慧であり、光です。その世界を最先端の科学が今、帰納法を使って仮説し、実験を繰り返し、証明している形になっています。

(注1)無量無辺の混沌とした振動…この宇宙に存在するすべてのもの、物質、空気、液体などはすべて原子、素粒子で構成されていると物理学は知見しています。その素粒子は振動し、独自の周波数で波動します(周波数…一秒間に振動する数、単位はHz・ヘルツ)。私たちの脳波は通常、シーター波(4~8Hz、まどろみ時)、アルファ波(8~13Hz、リラックス時)、ベーター波(13~30Hz、活動時)、ガンマ波(30Hz以上、緊張、興奮時)の周波数が中心になっていると言われています。しかし、それは脳はのごく一部のことです。脳波は脳全体の振動ではなく、大脳皮質の一部の振動をとらえたものにすぎません。複雑な脳は、億を超すニューロン(神経細胞)、グリア細胞、脳髄液、さらに数兆個あるシナプスの振動など現代科学のレベルではとらえることは不可能です。現在の脳波の知見で、心の病を完治させようとすると間違いを起こします。今の脳波は、あくまで一部の事実とみるとき、それを生かすことができます。

 周波数が高いと波動も大きくなります。この宇宙で最も周波数が高い存在は現代量子物理学の発見によると光とされ、400兆Hz(赤外線)から700~800兆Hz(紫外線)と言われ、思考や想像を超えた神がかり的な奇跡の周波数です。私たちは光で生きています。また微細(びさい)な光を体から出しています。それをバイオフォトンと学者は名付けています。生命は不思議です。

 私たちの身体と心は無数の周波数を奏で、瞬間瞬間、秩序を作りながら流れています。ある瞬間、その多数の振動が統合されたものが意識であるといった脳科学者(フリーマン)がいます。苦しみの周波数は一つの形があると推測されますが、音階が同じでも音色が違うように表出された周波数と、その波形は無数になります。それが生物や動物や人間のかたち・相の違いを形成していると思われます。その相も仮に和合されたものであり、絶えず変化しています。この世のすべては仮に和合したものが変化しているにすぎないとブッダは覚知しました。

(注2)森羅三千諸法の光…宇宙の現象世界は三千の諸法で構成されているという法華経の知見。釈尊の悟りを、竜樹菩薩の「中観思想…生命の「空、くう」や真実相を解明」を経て、天台大師が、生命の一念三千理論を発見しました。注7に詳述しています。

(注3)煩悩…生命のもともとのエネルギーのこと。狭義に欲望と訳すこともあります。破壊と創造のエネルギーであり、喜怒哀楽等の情も含みます。煩悩とは、生命そのもと考えられます。この煩悩を創造・慈悲に使うのか、破壊・無慈悲に使うのかで、幸不幸が決まります。その遣い方、働きを智慧と言います。智慧は地獄の智慧から、貪り、癡、物理や物事を発見する智慧、慈悲の智慧まで無数にあります。人を幸福にする智慧は慈悲の振る舞いに現れるとブッダは覚知しました。三毒と言われる煩悩は、貪り・癡・瞋りです。それに慢・疑を加え五大煩悩として悪になりやすい煩悩とされています。その他、随煩悩として51の心所を分析しています(成唯識論)。法華経の智慧は、煩悩即菩提と説きます。煩悩という生命のもともとのエネルギーを価値ある方向で生かすことを菩提、悟りと言います。煩悩は智慧によって悟りとなり、幸福を産み出すエネルギーに変わるということです。一枚のコインの表と裏の関係のようなものです。

(注4) 「今は生じるのでもなく、滅するのでもなく、無始無終 …ブッダ(釈尊)は法華経如来寿量品第十六(ほけきょうにょらいじゅりょうほん)で「如来如実知見 三界之相 無有生死 若退若出…にょらいにょじつちけん さんがいしそう むうしょうじ にゃくたいにゃくしゅつ(にょらい・覚者は、この世界を次のようにありのままにとらえます。生命は、ある時は有であり、またある時は無である。また生命は、ある時は生のかたちをとり、またある時は死のかたちをとる。また生命は顕在したり、潜在したりする)」と語りました。 生と死は生命の持つ二つの現象といい、生死不二(しょうじふに)とも言います。それが繰り返し続く、つまり生もなく死もない、始めもなければ、終りもないというのが、ブッダの直観智による生命現象の覚知です。

(注5)「今とは、我のエネルギーの表現であり」…今の我のエネルギーのことを煩悩と言います。煩悩とは生きるエネルギーのことです。煩悩がなくては、食べることも、飲むことも、寝ることもしなくなります。今の我を動かしているものが、エネルギーであり、煩悩なのです。その煩悩は行為・行動を産みだし、その行為が苦しみを招きます。ブッダはそれを「煩悩、業(行為)、苦」の三道と表現し、その転換を「法身、般若、解脱」と悟りました。簡単に説明すれば、浄化された生命、浄化する智慧、浄化され安楽な心身となります。これを煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)とも六根清浄(ろっこんしょうじょう)ともいいます。菩提は生命が解かる、つまり悟るという意味になります。また六根とは眼根、耳根、舌根、鼻根、意根のことです。「根・こん」とは能力を指します。この六根が磨かれ清らかになり、環境をすべて楽しく感じることができるような心身の力に変わるというのが六根清浄であり、仏道修行の最高の功徳(成仏…自分の生命に仏を開く、自分という我が浄化され慈悲を自然に行う)とブッダは言いました。

(注7)「今は如如・にょにょとして来る「如来・にょらい」であり、法性・ほっしょう」…私たちの瞬間の心は、どこからともなく起こり、滅しては生じ変化してゆきます。厳密にいえば、固定化された身体も刻刻と変化しています。身体は約46兆個の細胞から構成され、生まれ、活動し、死んでゆきます。一瞬も同じところにはいません。つまり身体も常に変化しています。そのエネルギーは、如如として、どこからともなくわきでるかのように起こります。これを如来といい、仏の性質、法性といい、釈尊は妙法蓮華経と名付けました。

(注68)諸法実相」 「サ・ダルマ・プンダリャキャ、ソタラン=妙法蓮華経」「空・くう」「12支縁起」『中観…空、仮、中の生命観」「唯識・ゆいしき」「止観・しかん」「一念三千理論」…ブッダが悟った宇宙(生命)の真理

 ブッダの悟った究極の生命の真理…諸法実相(注5,7)

 釈尊がインドの菩提樹の下で悟った宇宙・生命の真理。釈尊は、悟った法を約四十年にわたって説きました。その教えは八万宝蔵ともいわれ膨大なものでした。当時の衆生(人間)の法の理解力や機根(仏法を理解する能力)に合わせ、最初の三十二年間は、衆生に合わせるように、方便の教え(生命の部分観)を説いてゆきました。法然・親鸞の阿弥陀仏の教えである念仏、道元、栄西などの禅、般若心経などの方便の教えを三十二年間で説きました。そして晩年の八年間で、「いまだ真実を語っていない」と無量義経を説き、さらに真実の教えとして法華経二十八品を説き、法華経が真実の教えであると断言されました。宇宙の真実の法は、法華経方便品第二の中の「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ) 乃能究尽(ないのうくじん) 諸法実相(しょほうじっそう)…」(ただ仏と仏とのみが、よく諸法の実相を究め尽くされている)という言葉に集約されています。諸法実相とは仏のみが知る宇宙の真理という意味であり、ブッダの生命理論の要諦です。これがわかれば釈尊の悟った世界がわかると言われています。像法時代の仏である天台大師は、この諸法実相を悟り、一念三千論を発見しました。

 「今」の瞬間の私たちの生命には、三千の世界が存在する…一念は厳しき三千の諸法である

 天台智顗・てんだいちぎ(てんだいちぎ)(538年~597年、天台大師のこと。隋の皇帝も帰依し国師となった人)によると、ブッダの究極の法を多面的にとらえ「一念三千論」の生命科学理論を提唱し、像法(ぞうほう)時代(釈尊滅後1000年から2000年の期間)の仏・ブッダと言われています。すべての人間の生命に等しく十境界は内在し、縁(対象)によって現れると説きます。人間は、今の瞬間に、10境界のどれかを表わしていますが、一定せず絶えず変化(生死を繰り返す)していると説きます。

 私たちの「今」は、10の生命世界…苦しみ、喜び、怒り、平穏、愚か、欲、優劣感情などのどれかに属している… 生命の十界論… 

1、地獄界「束縛された不自由な苦しみ、苦をもたらすものをはねかえせない(うら)み憎しみ、怒りと破壊の渦巻(うずま)く生命、強い怒りが自分に向かえば自殺を招くこともある」。 瞋り(怒り)が原因で地下の獄につながれ、不自由となる最低の生命の境地で八大地獄があるとされている。 争い、戦争の主因になっている。 

2、餓鬼界・がきかい(がきかい)貪・むさぼ(むさぼ)り・飢渇・きかつ(きかつ)、執着、自らの欲望の(ほのお)に焼かれ、求めても得られない(かっ)し、もだえ苦しむ生命」。 あくなき欲望、身を焦がすような欲望が原因で、地獄に堕ちてゆく。

3、畜生界・ちくしょうかい(ちくしょうかい)癡・おろか(おろ)威張(いば)る、愧・は(は)じない心、弱肉強食、強いものに巻かれたり、弱いものをいじめたり、傷つけたり、強いものに殺されたり、弱いものを殺したりする攻撃と恐怖の保身の先を見ない生命」。…残害の苦を伴う、残害の苦とは殺される恐怖を味わうということ。愚かさが原因で恐怖と不安の世界に堕ちる。

以上の三つを(さん)悪道と名付け、人間の苦しみの根本因としています。現代の世界の各地の戦争や紛争をはじめとした惨劇(さんげき)、社会的犯罪などの不幸な現象はこの三悪道から起きるとブッダは洞察(どうさつ)しました。まさに現実化しています。各種暴力、パワハラ、いじめ、戦争の原因になっている。

4、修羅界・しゅらかい(しゅらかい)傲慢・ごうま嫉妬・しっと(しっと)、人より優れようとしたり劣等に苦しんだりする戦々恐々・きょうきょう(せんせんきょうきょう)とした心が揺れ動く不安定な生命」、現代の競争社会…学歴、成果主義社会の根底にある生命は修羅界です。人と比較し、人に勝とうと思い、心は安定しません。こうした競争社会に疲れ、家に回避しているのが、不登校・ひきこもりの要因の一つになっています。 上記四種の世界を四悪趣(悪へ趣く生命) といい、不幸の原因の境界としています。病はこの四つの世界の偏りが原因です。                              

5、人界・にんかい…人間界(にんかい)『平穏・安定した思いやりに満ちた平和な本来の人間の生命状態」、人に勝とうとするより、自分に負けないように努力する境涯です。常に自分と自分を比べ前進しようとします。  

6、天界(てんかい)「満足・充足・喜びの生命」…喜びの深さには三種類の世界があるとされている。1、欲界(五感覚が満たされた世界…食べる、飲む、アルコール摂取、ゲーム・ギャンブルをする、寝る、住まい、衣服、性欲、物質、お金、名声、地位、権力など) 2、色界(作曲、絵を描く、文章を書く、自然観察、科学の発見など学術・芸術の世界) 3、無色界…精神世界(言葉で思考したり、想像したりして、閃きを得たり、何かを悟ったりする世界)欲界の頂上が魔王(生命の破壊王)の住所とされている。

人間はこの六つの世界を縁・えん(えん)(対象)によって(めぐ)る、つまり六道(ろくどう)輪廻・ろくどうりんね(りんね)しているブッダは説きます。この六つの境界は環境に左右されやすい生命状態で安定できません。                                    

7、声聞界・しょうもんかい(しょうもんかい)(正しい知識を学び自分のものにする向学の心、向上する生命)、 

8、(えん)覚界・えんがくかい(がくかい)(見えない世界や法則を(さと)智慧(ちえ)の生命)  

9、菩薩界・ぼさつかい(ぼさつかい)(自他ともの生命を高め慈・いつく(いつく)しむ慈悲と智慧の振る舞い、自己中心性を克服(こくふく)し生命を大きく飛躍させる崇高(すうこう)な生命)                          

10、仏界・ぶっかい(生命の真実を悟り永遠性を覚知できる智慧と絶対安心、清らかな生命)…以上の四つの境界は、生命が安定し、エネルギーに満ち、環境や他者を価値的にリードすることができると言われています)。

 これら境界は固定されていないというのが、私たち人間の救いになります。例えば今、苦しく地獄のどん底であっても、縁によって冷静な人間界に変わったり、苦しみが抜けて天界に変わり、さらに苦から学び悟りの境界になることもあります。だから、どんなに苦しくとも希望を持てるのです。生命の十境界論は、希望の哲学であり、太陽の思想なのです。 

 「今」の生命の十の世界に、さらに十の世界が内在するという、自己変革の理論

 法華経以前の教えでは、十界は、固定化された世界観とされていました。地獄の衆生は地獄に生きる、仏は仏の世界を生きるなど差別の世界観を説いたものでした。ところが、法華経では、地獄で苦しみのどん底にある衆生にも仏界があり、仏の中にも地獄界があるという「十界互具論」(それぞれの十界に十界が空の状態で存在する)が展開されます。これによって、すべての衆生も仏になれるという真の平等性が説かれ、また変革への可能性が生まれました。

 すべての命(衆生(しゅじょう)・しゅじょう、人間)は十境界をもち、それらは「空・くう(そら)」の状態で存在し、縁・えん(対象)によって起こるという関係性理論を展開しました。生命の十境界は固定化されたものではなく、縁(対象)によって起こり、変化してゆきます。どの境界がよく出るのかによって、その人の人間性の品位(ひんい)・ひんい、振る舞いが決まります。意識を磨き修行すること(意志、決意、誓いをもち行動すること)で境界のレベルを上げることで人格を高め、品・ひん(ひん)のある人(孔子(こうし)のいう君子(くんし))になっていくと論じています。ブッダは修行によって、仏界(ぶっかい)(宇宙大の尽きることのない智慧と慈悲と創造性、生命力などを含む無上(むじょう)宝珠(ほうじゅ)の世界)の境涯(きょうがい)定業化・じょうごうか(じょうぎょうか)(習慣化)を弟子たちに教えました。現在の量子力学は、縁起という関係性理論を証明していると言われています。

 私たち一人一人に違いがある根拠個別化・差異の生命の法                

 個別化・個の我の差異の法として、三世間(さんせけん)を説きます。世間とは違い、差異、差別という意味です。人は等しく10界の世界を持っていますが、現実は差異があり、社会は差別が現実です。また産まれながら差異・差別を持って生まれます。その差異を証明する原理が、衆生(しゅじょう)世間、五陰(ごおん)世間、国土(こくど)世間という三世間です。

 人間の本来的差異・差別・違いの理論…衆生世間

 まず衆生世間の説明です。生物・人は等しく10界の世界を持っていますが、縁(環境)によって、どれかの世界を現わしています。例えば地獄の世界は、瞋りですが、心に怒りを持ち、怒りに任せて行動し、怒りを口に表したりします。各境界は「行動、意、口」で行為され、繰り返すことによって習慣化されます。それをカルマ(業)といい、その習慣化された生命の状態を境涯といい、衆生世間と言います。

 いつも穏やかな人界の人もいれば、いつも楽しそうな天界の人もいれば、いつも飢えたように何かを求め、「〇〇したい」と欲望に焼かれるような餓鬼界の人もいれば、いつも威張り弱いものをバカにし先を見ない愚かな畜生界の人もいれば、いつも人と比べ自分のほうが素晴らしいと自己陶酔しマウントする修羅界の人もいれば、いつも物事を深く考え、思索し慎重な行動をする声聞・縁覚の人もいれば、常に人の苦しみを自分の苦しみのように悩む菩薩の人もいます。

 その人の行為の習慣性、傾向性を衆生世間といい、バネが元の位置に戻るように、その人の基底の境涯があります。それは一つの世界だけに限らず、地獄、餓鬼、畜生が等しいくらい、それが基本になっている人を「等分」といいます。多くの衆生は、地獄、餓鬼、畜生を基本に生きています。その生き方を三悪道とブッダは言います。修羅界を加え、四悪趣と呼びます。多くの人々は、天界(欲望が満たされた世界、喜び)を求め、三悪、四悪趣に生きているとブッダは見抜いていました。それを衆生世間と言います。

 生まれた時から差があり、同じ親から産まれたのに違うのは衆生・五陰世間に由来する

 その衆生世間によって、人の幸不幸が決まります。同じ親から産まれた兄弟姉妹でいろいろな違いがあるのは、衆生世間が理解できれば納得できます。私たちの生命は、この世に誕生したときから始まるのではなく、それ以前から我(が)は阿頼耶識(業・行為の貯蔵庫、現世では脳の記憶)の中で流れています。スタートラインから違うのは、今世の終わりがみんな違うのと同じです、衆生世間がそのまま、三世を流れるのです。おまけも割引もない厳しい因果の法であるとブッダは言います。これを自業自得(自らの行いの結果は自らが得る)と言います。

 人間の差異をさらに個別化する法…五陰世間(物事の見方、考え方、受け止め方、行動のしかたの違い)

 五陰(ごおん)とは、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(こう)、識(しき)の五つの生命の働きを指しています。色は簡単に言えば肉体、形です。仏法用語にすれば色法(しきほう)になります。みんな顔が違ったり姿かたちが違うのはこのためです。「受、想、行、識」は心(心法・しんぽう)です。性格、人格、人間性の違いとも言えます。「受」は物事を感受する神経反応です。感受したものをイメージしたり、言葉にしたりする心的働きが「想」です。言葉やイメージ化の後、意識の方向性ができます。これが「行」です。物事を判断し、区別する働きが「識」です。こうした、心的プロセスが受、想、行、識です。認知行動療法と一部重なっていますが、深さが全く異なります。こうした肉体と、心の働きの違いを五陰世間といいます。

 差異を持った衆生・人間が住む国土・環境が国土世間…住む世界の違い地獄(穢土)か天国(浄土)

 その衆生・人間が住む世界を国土世間と言います。三悪・四悪趣の衆生が充満する世界を穢土(えど・汚れたけがれた土)という国土になります。その時代を濁世(じょくせ)とブッダは言いました。人が主体とすれば、環境は影になります。主体が曲がれば影も曲がります。人と環境は一体です。生命は、一方で主体となり、一方で環境として出現します。生命は主体と環境が常にセットで存在するというのがブッダの悟りです。

 環境と自分が一体という依正不二論は、自己変革の科学

 それを依正不二(えしょうふに)と言います。「依」は依法で正法を取り巻く環境世界、「正」は正法で主体、自分という意味です。その二つは二つに見えますが常に同時に出現するという考えです。自分は一方は自分という主体、一方は環境という主体の影のような存在です。主体が曲がれば影は曲がります。主体がまっすぐであれば、影もまっすぐになります。この生命論は変革の原理と言われています。自分が菩薩や仏の境涯になれば、見る世界がすべて喜びなり、環境は明るく輝き、塵さえ宝石に見えてきます。それを浄土とも寂光土(じゃっこうど)とも言います。人間だけが自分を変え、環境を変えることができます。また人間は環境に影響され環境に支配されたりしますが、生物の中で人間だけが自分を高め変えていくことができます。そのことを「聖道正器」(しょうどうしょうき)とブッダは言いました。自分を高める仏道修行ができる可能性を持つ存在という意味です。私は、人生の中で、何度もその哲理の真実を実感しています。近い言葉に身土不二があります

 今の意識、無意識の世界をとらえた天親菩薩の唯識論…人間の宿命・運命を転換する鍵

 天親(世親ともいう)は5,6世紀ごろのインドの人です。唯識とは、一切の現象は、ただ識としての心に映し出されたものにすぎず、万法は意識の変貌であり、識以外に存在するものはないということです。五感覚を通して現象を認識する、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の五識。五感覚は外の世界を把握する器官ですが、多くの障りを持っています。

 例えば眼を例にあげれば、視力によって見え方が違い、色の区別ができない眼もあります。また眼で見る世界は、180度ぐらいの視界であり、距離も限られ、望遠鏡とは比較にもなりません。また明かりがないと何も見えません、まして失明すればモノを見ることすらできなくなります。他の四つの器官も同様であり障りと限界に満ちています。

 五感覚で区別した世界を言葉を通して感覚を鮮明にするのが六番目の識としての意識です。意識は快、不快、恐怖などを鮮明にし焦点化するため、快を求め不快を嫌い遠ざけたりする執着や貪りを起こし、心のバランスを失います。七番目のマナ識、八番目のアラヤ識は、潜在意識として無意識に存在しています。

 マナ識は、心の内界から起きるもろもろの思いや感情であり、自己執着(自分はすばらしい、自分が愛おしい、自分があると思う、自分がわかっていない愚かさなど)の濁りを伴い、愛や憎を強め、意識を惑わせ曇らせます。それは八識のアラヤ識によって染色されています。

 阿頼耶(アラヤ)識は、記憶の貯蔵庫と言われ、過去の善悪の行為をすべて貯蔵している識とされます。阿頼耶識は自分と他人を区別します。その働きが他生命との差別をつくってゆき、世界を苦に巻き込み濁世にしてゆきます。「今」は、そのアラヤ識から、マナ識を経て、意識化されてゆきます。このアラヤ意識が宿命・宿業を作る、一切の種子識とされています。このアラヤ識を浄化してゆく識は九識です。この九識を天台大師は根本浄識と名付けました。

 天台大師は九識…根本浄識(仏性)を提唱し、宿命転換の法を説いた

 九識を法性・仏性・妙法蓮華経と言います。この九識は、たとえて言えば太陽の光のようなものです。どんなに曇っていても、雪が降っていても、嵐であっても、ひとたび太陽の光が差し込めば、闇はなくなり、視界は開け、障りなくものを見ることができます。そのとき私たちの生命は、執着や貪りから解放され、愛憎のしがらみはなくなり、自分や他人や他生命も平等であることを悟り、光り輝く存在に変わってゆきます。そのとき、あらゆる苦は明るみ照らされ楽に変わり、病は消滅します。その太陽の光を妙法蓮華経の智慧の光といいます。ブッダは、そのことを「平等大慧」「慧光照無量・えこうしょうむりょう…私たちの智慧の光は無量で、平等で、すべての世界を明るく照らし、その時、病は消え、苦もなくなる」(法華経寿量品)と説きました。

 私たちの心に太陽を昇らせ、宿命を転換する法

 三世の諸仏は妙法蓮華経に生きること(妙法蓮華経にナムする、帰命すること=南無妙法蓮華経)を説きました。仏性=妙法蓮華経は三世に変わらない今を振動する神秘な慈悲と智慧のリズムであり、秩序整然とした周波数です。この神秘な創造的な周波数が私たちの「今の心」に深くに脈打っているとブッダは覚知しました。そのリズムに合わせる行為が信であり、祈りであり、南無・帰命という仏道修行であるとブッダは説きました。

 その修業は自他ともの抜苦与楽という慈悲の修行です。慈悲の心と祈りがないと、仏性の智慧はわかず、リズムには乗ることはできません。妙法蓮華経の題目はあくまでも言葉の比喩だからです。比喩で表現している実態に迫ることこそ、慈悲の周波数の奏でる智慧の祈りです。それは自利でだけではなくて、利他を含んだ、共存共栄が宇宙の真実の法のリズムである妙法蓮華経の実相だからです。太陽がすべての存在をあまねく照らすように、すべての存在が利益される、それが宇宙真実の相なのです。(法華経は妙法蓮華経の略) 

 人間という生命のかたちを持って生まれてくるのは至難のこと

 人間に生まれることはガンジス川の無数の砂の一粒程度とブッダは言いました。さらに人間に生まれ、正しいブッダの法(法華経)に遭うのは、一つの山の頂上に針を立て、隣の山の頂上に糸を垂らし、風が吹いたときに、その糸を針に通す確率であると語りました。また、せっかく法華経に出遭っても、ブッダの教え通り(志のまま)に実践することは、さらに難しいと説かれています。だから仏になること(自体顕照…現代的に言えば、自分を最高に発揮し自己実現すること)は難しいと言いました。

 苦や瞋りの消滅法としての自殺は真の解決にならない

 地獄の人は地獄の世界に住み、見るもの、聞くもの、触れるものなどすべて苦しみになり、この世が辛く嫌になります。その苦の世界から脱出法の一つが、自分の意識(自分の一部を感受、認識している働き)が自分という全体を殺す行為(自殺)です。今の肉体(色法)はなくなりますが、心法(我)は消えません。今の我(が)は連続し不滅です。苦をもたらす今の環境と肉体は消せても心法は消せません。意識で肉体は消せても、心法(心の働き…肉体のかたちを作ったり、その活動をする心性を持つ我は永遠に続きます。苦しみという心的状況は肉体がなくなっても続くとブッダは言います。なぜなら、色心不二が生命の真理だからです。

 死後の生命は色法が冥伏(潜在)した状態で存在しているからです。具体的に説明すると、人体を構成していた原子の酸素や炭素、リン、カルシウムなどは火葬によって他の分子に変化し空中に飛散し、一部は骨として残ります。無くなったわけではなく、かたちを変えただけです。時を経て、自分にふさわしい生命境涯に応じたかたちを得るため、いろいろな原子を集めると言われています(非情の存在物…植物、有情の存在…昆虫、鳥、動物、差異・差別をもった知的生物・人間など。法華経比喩品に説かれている)「一たび人身を失えば万劫得難し」とブッダは語ります。一度人間という境涯を失えば、万劫(永遠に近い年月)得ることができなくなるということです。

「この世で死んだ者はだれもいません。エネルギーは不滅だからです。一つの形から別のかたちに移ったにすぎません」とニコラ・テスラが言った通りです。心法が感じる苦しみは連続してゆきます。つまり自殺では苦は解決できないというのが仏法生命論です。どんなに苦しくとも、胸中に仏界という太陽があります。それを信じて、生きている間に苦を解決し転換し、境涯を変えるというのが真の解決法になります。必ず解決できるというのが法華経の希望の哲学です。自分の意識が自分の全体を変えてゆくという勇気ある自立の哲学が法華経です。

筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部(一期生)在学中から、哲学、文学、思想、日本人の行動様式論、生と死の宗教(主としてキリスト教と仏教)、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。深層心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学(中心は法華経)の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。