学べば学ぶほど、私は何も知らないことがわかる。自分が無知であると知れば知るほど、よりいっそう学びたくなる…アインシュタイン
植物も動物も自分を変えることはできません。細胞に組み込まれた遺伝子の進むまま、生住異滅(注1)の法則にそって生きているからです。人間だけが自分を変えることができる知的生物です。自分を変えるには、人間の特性である知性をいかし、自分を正しく知ることの学びから始めなければいけません。科学は、人間の知性を最大限にいかし、光、電磁波、素粒子などの極微な世界まで探求しました。そして物質世界の一部の法を発見することに成功し、私たちの生活を利益しています。医学も、その恩恵を受け、細胞、神経、ホルモン、脳などの物質の解明が進み、治療法としての解剖学や薬学が大いに発展しました。宇宙や生命に存在する法(注2)の発見は、正しく運用すれば私たちの生活に価値をもたらします。
(注1)「生住異滅」(じょうじゅういめつ)…宇宙に存在する生命は、自分にふさわしい「かたち」を持って生まれます。そして、成長し、一定期間、そのかたちを維持しながら活動し、やがて老い衰え、滅してゆきます。その生命の生死の法則は、動物も植物も人間も等しく同じなのです。
(注2)宇宙や生命に存在する法…人間社会には憲法や条例や交通法など、人間倫理を守らせるための法がたくさんあります。それは、為政者が国を統治しやすくするために作った仮のものです。戦争になると、国民を戦争に駆り出しやすくする思想統一の法を、かつての日本も作りました。その一例が1925年制定の治安維持法です。この法は、思想言論の自由を抑圧し、戦争反対者を獄死させたりしました。現代社会でも、ロシアや中国、北朝鮮は人間の自由を抑圧する思想統一を行っています。こうした法とは別に、宇宙を構成する生命現象は諸法で織りなされてい.ます。これは国法と異なり誰人の生命にも存在する本有常住の法です。国宝や世間法を逃れたとしても生命の法は逃れることはできません。なぜなら私たちや自然や宇宙の生命そのものの働きだからです。その本有常住の法を悟った人が約2500年前のインドの人、釈尊(ブッダ)です。その法は、竜樹、天親、そして中国の天台智顗らによって生命の三千諸法として理論化されました。生命の法には、生死の二法、色心不二、十境界論、唯識、空、十二支縁起など幾多の深遠な法がありますが、物質世界と違って、五感での認識が難しいため難解です。物理学は、物質(色法・しきほう…人間で言えば身体の働き)の一部の法を今日まで解明してきましたが、生命の心法(しんぽう…人間で言えば心の働き)の側面は、ほとんど解明できていません。そのごく一部である十境界論を以下に解説いたします。
物質科学は、心の世界に、ほとんど手付かずです。物質ではない心は分析できず、実験もできないからです。心の病の治療法として、今日まで、精神分析、行動療法、認知療法、認知行動療法、来談者中心療法、マインドフルネスなどの療法が行われてきました。しかし、最も改善率の高い認知行動療法でも、心病む人の50%~60%の改善率と言われています。完治になると、ほとんど患者自らの一種の悟りのようなもので治しているのが現状です。
なぜ治せないのでしょうか。それは神秘ともいえる生命・心が解明できていないからです。身体と心で成り立つ生命そのものが解かっていないからです。科学は、物質を帰納法によって分析しますが、その手法では、心の世界は把握できません。心の世界は、演繹法的直観智しか把握できないのです。見えないが確かに存在し働き動いているのが心の世界です。その動きは、物質のように固定化されていないので、言葉でも実験分析でも把握できないのです。そのありのままをとらえるのは、その心の働きそのものになるしかないのです。それが直観であり、覚知です。つまり対象と自分が一体になることによって可能になります。「心の病は最終的に患者自らの悟りのようなもので治した」と先ほど言った意味はそこにあります。
直観智に必須のなのが、澄んだ清らかな生命です。生命の鏡が曇れば、曇ったものしか映りません。鏡が澄めば映像が正しく映ります。古代インドでは、生命の真理を悟るために、心の鏡を磨き浄化するためのいろいろな修行法が行われていました。心の濁りは欲望から生じるとして、欲望を断じ尽くす修行が行われました。極端なものもあり、断食を続け、死ぬと悟りに至ったなどという修行もあったと言われています。
生命の真理を悟った釈迦(悟ったあとはブッダと呼ばれる)も、当時の苦行の修業を10年近く実践したと言われています。「苦に徹すれば珠となる」と文豪の吉川英治は言いました。苦は心を磨く働きをします。それは苦に対する姿勢で決まります。苦をただ受動的に受けるだけなのか、それとも苦に立ち向かい、解決しようとするのか、後者の姿勢は悟りに向かいます。それが珠になると吉川英治は言ったのです。結論を言いますと、あらゆる心の病は生命を浄化し、直観智を得れば治るということです。それが自分変革理論の要諦です。マインドフルネスも直観を磨くことを志向していたと思われます。(直観智に近い言葉に、インスピレーションや閃き・ひらめきがある)
最近の素粒子のミクロ世界の超弦理論(すべての素粒子は極小のひもの振動パターンの違いによって生まれる)は、見えない心の解明にヒントを与えてくれています。ここでは、神秘な生命を直観智した2500年前のブッダの生命論をもとに、自分変革理論を展開してゆきます。(ブッダ・釈尊は生命の覚者。覚者は釈尊のほか、天親、竜樹、天台など宇宙には多数存在する) 直観智を磨くためには、アインシュタインが言ったように、あらゆるものを学ぼうとする心、欲望を調整する心、今までの自分を乗り越え、自分を高めていこうとする行動が必須です。
まず、私たちの今の心、生命の状態を正しく理解し、学ぶことが第一歩になります。
私たちは、今、次の十種の境界のどれかに属し、独自の振動をしている
あなたは、今、どの生命の位にいますか? …1、怒りの奴隷? 2、欲の虜? 3、人面動物? 4、マウント者? 5、思い遣りの人? 6、喜び楽しむ人? 7、英知の人? 8、閃き発見者? 9、慈悲の人? 10、人間王者?
私たちの生命は、人も植物も動物も以下の10種のどれかの境界に属して今を生きています。その生命状態が持つ固有の周波数と波形の音色を境涯と言います。1から順次、10に向かって生命空間は拡大し、生命力、智慧、慈悲は強く豊かさを増し、安定度も自由度も増していきます。1の地獄界が最低の境界で、10の仏界が最高の境界で智慧と歓喜の世界です。1から6までの境涯は、環境に振り回されやすく、特に1から4の境涯は、対象にマインドコントロールされやすくなります。
多くの人は、6番目の天界を目指しています。その世界に楽しさ、喜び、快適さ、幸福があると思っているからです。6番の境涯を獲得しているように見える総理大臣や大統領や億万長者は、私たちの目には幸せそうに映ります。しかし、生命の位は6番の位置にすぎません。なぜなら、その境涯は、砂上の楼閣であり、安定せず、移ろいゆく仮の位であり、やがて跡形もなく消え去ってゆくものだからです。しかし、多くの人は、その位置に執着し、不幸の原因を作ってゆきます。
鳥や動物も自らの家族や子どもを守るために自分を犠牲にし、中には命さえ捧げる動物もいます。動物の「かたち」をしていますが、その時の生命の位は9番目の菩薩界の高さにあります。人間が、勝手に人とか犬とか鳥とかに分類し名付けているだけです。「かたち」は異なりますが、すべて同じ動物であることには変わりません。他の動物からすれば、犬もカラスも人も同じ動物の一種なのです。果たして、どの生き物が生命の位が高いのか、実のところ判別できません。(かたち…人間、動物、昆虫、細菌、魚、植物などの「かたち」・体は過去世の自らの業・行いの集積が自ら決めるという生命の法則…下欄の阿頼耶識に詳述)
「世界でもっと素晴らしく、最も美しいものは、目で見たり、手で触れたりすることはできません。それは心で感じなければならないのです」とヘレン・ケラが言ったように 「心で感じる」しかわからないようです。植物や果樹は実ったコメや麦や実を他の動物に捧げるという崇高な働きをする9番を演じています。人は他の生物より、知的能力に優れているにすぎません。動物や植物は「感じる」能力は、ある部分では、人間以上のものがあります。ミミズは目も耳も鼻もありません。皮膚で光を感じ、水分を調節し暗い土中で、光を感じて生きています。植物も光の感度は、人間を大きく上回る能力を持っています。家族や種を守ろうとし、命すら犠牲にする、ある種の動物より、人のほうが優れているといえるかどうかは疑問です。人は、鳥のように空も飛べません。しかし知的道具の銃で鳥を撃ち殺すことができます。人が他生物より優れているのは知的可能性だけです。後の十境界は平等に持っています。
私たちを含め、この宇宙のすべての存在は、心の奥底で10の仏界の不動の境界を目指し、その方向を向いています。なぜなら、私たちの生命の生まれ故郷であり、母なる安心大地だからです。その境涯の修得こそ崩れない心の豊かさをもたらします。その境涯には、充実があり、強さがあり、賢さがあり、智慧に満ち、無上の宝珠があり、浄化された自由自在な喜びの絶対的幸福があります。それが、私たちを含めた生物の、ありのままの、本来の生命の振動と音律(コラム2)なのです。(ブッダの生命真理の覚知の継承者、天台大師の生命の境界理論を、筆者が現代的に解釈し要約した仏法生命科学論より・コラム3)
1、怒り(瞋り)の奴隷…地獄界…束縛された不自由な境涯。苦をもたらすものをはねかえせない恨み憎しみ、怒りと破壊の渦巻く境界。強い怒りが自分に向かえば自殺を招くことがあります。 瞋り(怒り)が原因で地下の獄につながれ、不自由となる最低の生命の境地です。怒るほどエネルギーは消耗し、最後は枯渇し、苦をはね返せなくなり、今、活力があっても、徐々に苦を受動的に無限に受ける身となっていきます。うつ病には、意識できない強い瞋りが潜んでいます。 その瞋りは自分を責める自責の炎となり、自らの生命を損傷し、気力を奪います。やがて、苦しみからの解放策として、死が甘美な装いを持って迫ってきます。自殺は、人間知性が生命の魔性・破壊性に乗っ取られた姿です。どんなに苦しくとも、知性を働かせ生き続けなければなりません。苦しみのエネルギーが死後も続き、永遠に続くことを思えば、生きている間に苦しみを乗り越えなければなりません(阿頼耶識を参照にしてください)。地獄界の起こす振動は不規則で、その波形は乱れ、波動は逆流し、破壊攻撃波は最後は自分に向かい生命力を奪い、死に向かいます。怒りという生命の魔性にマインドコントロールされ、自分を見失う境涯です。争い、戦争、破壊の主因は瞋りであり、地獄界がもたらします。 (じごくかい)
2、欲の虜(とりこ)…餓鬼界…貪(むさぼり)・飢渇(きかつ)、執着、自らの欲望の炎(ほのお)に焼かれ、求めても得られない渇(かっ)し、もだえ苦しむ生命境涯です。 貪は貧で、貪るほど貧しくなります。あくなき欲望、身を焦がすような欲望が原因で、地獄に堕ちてゆきます。人は五欲(五つの感覚器官がもたらす快感)に執着します。快は心地よく、ドーパミンという快楽神経伝達物質は、電気信号を通じて、私たちの脳や心身を麻薬のように麻痺させるからです。対象に向かうエネルギーは一時的に高揚し、自他の損傷を招き、破滅に向かいます。金の亡者、人気・地位・名誉・異性に貪著・執着する人は餓鬼の境涯です。恋の奴隷であるストカー殺人の背後に貪欲の執着地獄の炎が見えます。餓鬼界の波動は竜巻に似ています。通りさった後に残るのは、無残にも破壊された残害物です。あくなき欲望にマインドコントロールされる境涯です。各種依存症は、依存対象にマインドコントロールされた状態であり、餓鬼界を中心に、愚かさ、瞋りが原因です。(がきかい)
3、人面動物……畜生界…癡(おろか)、威張る、愧(はじ)ない心、弱肉強食、強いものに巻かれたり、弱いものをいじめたり、傷つけたり、強いものに殺されたり、弱いものを殺したりする攻撃と恐怖の保身の先を見ない境涯です。何が正しく、何が間違っているかわからなくなり、道理に暗い世界です。残害(ざんがい)の苦を伴います。残害の苦とは殺される恐怖を味わうということです。動物や人は強いものに殺されるとき、この恐怖に震えます。愚かさが原因で恐怖と不安の世界に堕ちます。クレマーの心理もここにあります。相手が自分より強い人にはクレームできません。反撃されることを知っているからです。強い立場・高い立場を利用して下位のものをいじめたり、暴力をふるうのは、この畜生界の癡かさが原因です。目先のことしか見えず、そのとき倫理・道徳観はなく、人間も動物の本性になります。目先の欲望に己を失いマインドコントロールされてゆきます。
私たちの善悪の行為は脳に記憶され、阿頼耶識(注3)に堆積し、悪行が多く積もると、来世は動物や餓鬼や地獄の世界に生まれ罪を償うことになります。これを因果律と言います。賢い人は、動物的生き方をやめ、人界を目指します。因果という道理がわからない者は、来世、動物に生まれることを無意識で希望しているようなもので、こうした生き方がとまりません。動物といってもライオンになるわけではなく、ハエやダニやゴキブリになるかもしれません。閻魔大王が決めるのではなく、すべて自分の生き方が来世の生のかたちを決めます。畜生界の強い人は、先が見えないほどの盲目さなのです。だから、畜生界を癡と言うのです。周波数は乱れ、音色に響きはなく、遅滞し、どんよりした波動を伴っています。各種暴力、パワハラ、いじめ、戦争の原因は畜生界が中心で、貪り、瞋りが原因です。(ちくしょうかい)
(注3)阿頼耶識…天親菩薩(5,6世紀ごろのインドの大乗論者、インドでは釈尊に次ぐ覚者、そのほかに竜樹菩薩がいる)が発見した心の八つの世界を唯識といいます。唯識とは、一切の現象は、ただ識としての心に映し出されたものにすぎず、万法は意識の変貌であり、識以外に存在するものはないということです。五感覚を通して現象を認識する、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の五識。五感覚は外の世界を把握する器官です。五感覚で区別した世界を言葉を通して感覚を鮮明にし、貪著(とんじゃく)するのが六番目の識としての意識です。七番目のマナ識は自我執着識とも思量識とも言われ、愛憎で汚れやすい潜在識で、染汚意(ぜんまい)とも言います。八番目の阿頼耶(アラヤ)識は、記憶の貯蔵庫と言われ、過去の善悪の行為をすべて貯蔵している識とされます。阿頼耶識は自分と他人を区別します。その働きが他生命との差別をつくってゆき苦に染まりやすくなります。私たちの「今」の生命活動は、そのアラヤ識から、マナ識を経て、意識化されます。このアラヤ意識が宿命・宿業を作る、一切の種子識とされ、私たちの次の生命の活動を自動的に産みだします。さらに来世の私たちの生の「かたち」(動物、人間、植物など)を決定すると言います。生命エネルギーは、「かたち」を変えますが、不変です。今の境涯が、来世も続くというのがブッダの悟りです。
以上の三つを三悪道と名付け、人間の苦しみの根本因としています。現代の世界の各地の戦争や紛争をはじめとした惨劇、社会的犯罪などの不幸な現象はこの三悪道から起きるとブッダは慧眼し、警告しました。まさに現実化しています。果たして人間はこの不幸の連鎖を断ち切れるのでしょうか? こうした人間の苦を解決しようと、人間の知性は宗教を作り出し、救いを求めました。宗教は人間苦の解放から生まれたものですが、あくまでも私たちと同じ人間の知性が作った言葉であり知識です。ここを間違えると、不幸は数倍に膨れ上がります。最近の社会的事件を起こした宗教がその事実を物語っています。
言葉や知識や思想・宗教は人の不幸を加速させる危険性を持っています。一例をあげれば、旧約聖書やハムラビ法典の「目には目を」という言葉は、「同害報復」を許す言葉ですが、それが、「殺されたら、殺せ」になり、殺人の連鎖を生みだし、戦争を継続させています。「目には目を」を脳科学から分析すれば、「攻撃には攻撃を」「怒りには怒りを」「憎しみには憎しみを」「恨みには恨みを」になり、その反復は、脳内の電気配線を強化し、瞋り憎しみは心深くに刻まれてゆき、抜けなくなります。そして殺し合いという戦争は激しさを増す結果になってゆきます。そこに人間を超えた神という言葉が登場すると、その行為は正当化され、人間倫理や道徳は神の名のもとに消え去り、地獄絵図が展開されます。その収束は、アルマゲドン(世界の終末に神と悪魔の勢力が最終決戦を行う戦い。新約聖書ヨハネ黙示録)という非科学神話で幕を閉じます。
また宗教・思想が集団化すると必ず腐敗します。どうしても不純物(私利私欲の人間)が混ざり、その不純さが集団内を汚染するからです。これは集団・組織の持つ宿命であり、10種の生命境界を持つ人間にとって、免れることはできません。何を信じるかで幸不幸が決まります。信じる対象の理論と科学的実証性がすべてです。科学性なき言論は詐欺といっても言い過ぎではありません。科学は理論を実験し証明し、現実に価値を生み出し、万人が納得できる形にします。科学は納得という説得力を持つものです。
ニュートン物理学のころから、今日まで、量子力学、素粒子力学などの形而下学・けいじかがく(物質学)が学問の世界を席巻・せっけんしています。その発見発明は人間の現実世界を利益し、価値をもたらしているからです。それに対して、心理学、哲学、宗教など形而上学(けいじじょうがく)は科学性に乏しく遅滞しているように見えます。物質世界は実験証明し法を発見します。形而上学は、現象を現象たらしめているものを把握する世界です。それは直観智による法の発見の手段をとります。
かたちや物質は、見えない働きで成立しています。その見えない働きを智慧と言います。その見えない智慧を悟る働きは、ヘレン・ケラが言う「心で感じること」なのです。それには生命の濁りを浄化することが必須になります。ヘレンは三重苦という想像を絶する苦との戦いの中で、心が浄化され、心で物事を感じることができるようになったのです。濁った生命の鏡には、正しいものが映らないからです。どのように生命の濁りを取り、浄化させるかが幸福になる必須条件です。その方法は先人覚者の、「抜苦与楽」(他者・自己の苦しみを抜き楽を与える修行)の菩薩道を鏡とするしかありません。自他ともの「苦しみを抜く」という苦との対決の中で、生命の浄化が進みます。「逆境は最良の教師なり」(イギリスの政治家、ディズレーリ)「艱難汝を玉にす」とはこのことを言っています。
ブッダは、この宇宙を構成する、すべての法を悟った人と言われています。その悟りの智慧に生きれば価値が生まれます。智慧には、大きくわけて10種あります。10種の境界に応じて発動し、生きる対処力が智慧です。智慧は必ずしも人を導くものではありません。そのときの自分の生命活動の対処力です。犯罪者のような悪知恵、人をだます知恵、殺人機械を作る知恵など智慧もいろいろです。地獄界の智慧が最も光が弱く仏界が最高の光を放ちます。物理学、量子力学の智慧は、8番の縁覚の悟りの光です。アインシュタインの発見を可能にした智慧も8番です。仏の智慧は、仏智といい、宇宙を照らすと言われています。仏法は、宇宙の法と智慧を発見した科学です。それは正しく実践したもの者によって今日まで証明されてきました。しかし、証明者の数が少ないのです。理由は、正法の実践の難しさより、仏法を正しく伝える私利私欲のない清廉潔白な人が少なかったからです。(知恵と智慧の違い…知恵は、すべての対処力を指し、智慧は、価値を生み出す対処力という意味で使っています)
4、マウント者…修羅界…いつも人と比較し、人より勝りたいという気持ちに支配されている境涯。傲慢、嫉妬、人より優れようとしたり、劣等に苦しんだりする戦々恐々とし、心が揺れ動く不安定な境界です。自分が優れていると思ったり、劣っていると思ったりし、心が安定せず、ものごとを正しく見ることができなくなります。認知が大きく歪んでしまい、心も屈折してゆき、病んだ心を作ってゆきます。現代の競争社会…学歴、成果主義社会の根底にある生命は修羅界です。人と比較し、人に勝とうと思い、心は安定しません。目はいつも外を向き、自分を見つめる心を失いがちです。だから安定できないのです。その振動はぎこちなく、ある時は、鋭く対象に向かうため、無駄なエネルギーを使い、波形は乱れ、屈折します。虚勢を張って、美しく見せようとしますが、生命の波形は人工的で、本当の美しさはありません。こうした競争社会に疲れ、家に回避しているのが、不登校・ひきこもりの要因の一つになっています。 (しゅらかい)
上記四種の世界を四悪趣(悪へ趣く生命) といい、不幸の原因の境界としています。あらゆる病はこの四つの世界の偏りが原因で起こります。 その偏りを治したのがブッダの仏法生命科学です。釈尊(ブッダ)は医王と呼ばれ、万病を治したと言われています。
5、思い遣りの人…人界…人間界。平穏、安定した思いやりに満ちた平和な本来の人間の生命状態、海や風の凪(なぎ)のような状態。人に勝とうとするより、自分に負けないように努力する境涯です。振動に、乱れは少なく、穏やかな波動を奏でています。そばにいても安心できる境涯です。常に過去の自分と現在の自分を比べ成長しようとします。人間らしい思い遣りの溢れた世界です。 この境涯を定着させて、生きてゆけば、来世も人間に生まれるとブッダは説いています。(にんかい)
6、喜ぶ人…天界「満足・充足・喜びの生命」…喜びの深さには三種類の世界(三界・さんがい)があるとされています。1、欲界・よっかい(五感覚の欲求がが満たされた世界…食べる、飲む、アルコール摂取、ゲーム・ギャンブルをする、寝る、住まい、衣服、性欲、物質、お金、名声、地位、権力など…一時的なもので壊れやすい) 2、色界・しきかい(作曲、絵を描く、文章を書く、科学の発見など学術・芸術の世界…深い充実感をともなう) 3、無色界・むしきかい…精神世界(言葉で思考したり、想像したりして、閃(ひらめ)きを得たり、何かを悟ったりする純粋な精神の世界…法悦・ほうえつ)欲界の頂上が魔王(生命の破壊王)の住所とされています。人は天界を目指して生きており、1、2、3の順番で喜びは深くなります。2,3などの世界は、自分に打ち勝つ軌道の先に訪れる世界です。ブッダは「三界は安定できない、まるで火宅のようなものである」と説き、上の境涯(四聖)を目指すことを勧めました。(てんかい)
自分変革の道は、四聖の道を歩むことにある
人間はこの六つの世界を縁(対象)によって巡ります。六道輪廻・ろくどうりんねしているブッダは説きます。この六つの境界は環境に左右されやすい生命状態で安定できず、幸福になることは難しくなります。 ブッダは安定した世界を目指すため、次の四つの境涯(四聖の境涯)を目指すことを説きました。
7、知の探求者…声聞界…宇宙・生命の法を聴く、宇宙・生命の正しい法を学ぶ、そして自らの生命の真実を知る。広く言えば、正しい知識を学び、自分のものにする向学の心、向上する生命。学生、学者、研究者など。直観知の一つ、慧眼(けいがん)を持つ。 ソクラテス、プラトン、ニーチェ、キルケゴール、ショウペハウアー、マルクス、ベルグソンなどの哲学者(しょうもんかい)
8、法則の閃き発見者…縁覚界…宇宙・生命の法の一部を悟る。見えない世界や法則を悟る、発見、発明、閃き・ひらめきの世界。慧眼を持つ。ゲーテ、ベートベン。レオナルドダビィンチ、ニュートン、アインシュタイン、ニコラ・テスラなど(えんかくかい)
9、慈悲の人…菩薩界…自他ともの生命を高め慈・いつくしむ慈悲と智慧の振る舞い、自己中心性を克服し生命を大きく飛躍させる崇高な生命。自他ともの抜苦与楽に生きる人。人としての憧れの存在。直観智の一つの法眼を持つ。ヘレン・ケラ、ナイチンゲール、孔子、イエスキリスト、天親、竜樹などの菩薩(ぼさつかい)。自分中心のエゴとの真正面の対決、生命の魔性との闘い求められます。だから、人々は菩薩道を回避してしまいます。結果、仏界に至ることができなくなります。
10、人間王者…仏界…生命の真実を悟り永遠性を覚知できる智慧と絶対安心、清らかな生命。自由自在な境地。生命全体を直感する仏眼を持つ。六根清浄の果報、常楽我浄の四徳(コラム4)を得て、生きていること自体が楽しくて楽しくて仕方がないという心境になります。釈尊、天台大師、伝教大師、日蓮聖人、三世の諸仏など(ぶっかい)
以上の四つの境界は、生命が安定し、エネルギーに満ち、環境や他者を価値的にリードすることができると言われ、四聖・しせいの境涯と呼び、仏道修行の目標となりました。
法華経以前の教えでは、十界は、固定化された世界観とされていました。地獄の衆生は地獄に生きる、仏は仏の世界を生きるなど差別の世界観を説いたものでした。ところが、法華経では、地獄で苦しみのどん底にある衆生にも仏界があり、仏の中にも地獄界があるという「十界互具論」(それぞれの十界に十界が空の状態で存在する)が展開されます。これによって、すべての衆生も仏になれるという真の平等性が説かれ、また自己変革への可能性が生まれました。これら境界は固定されていないというのが、私たち人間の救いになります。例えば今、苦しく地獄のどん底であっても、縁によって冷静な人間界に変わったり、苦しみが抜けて天界に変わり、さらに苦から学び悟りの境界になることもあります。だから、どんなに苦しくとも希望を持てるのです。生命の十境界論は、希望の哲学であり、太陽の思想なのです。
すべての命(衆生・しゅじょう、人間)は十境界をもち、それらは「空・くう」の状態で存在し、縁・えん(対象)によって起こるという関係性理論です。生命の十境界は固定化されたものではなく、縁(対象)によって起こり、変化してゆきます。どの境界がよく出るのかによって、その人の人間性の品位・ひんい、振る舞いが決まります。意識を磨き修行すること(意志、決意、誓いをもち行動すること)で境界のレベルを上げることで人格を高め、品・ひんのある人(孔子のいう君子)になっていくと論じています。
ブッダは修行によって、仏界(宇宙大の尽きることのない智慧と慈悲と創造性、生命力などを含む無上の宝珠の世界)の境涯の定業化・じょうごうか(習慣化)を弟子たちに教えました。現在の量子力学は、縁起という関係性理論を証明していると言われています。
(コラム1)生命の十界論…天台智顗・てんだいちぎ(538年~597年、天台大師のこと。隋の皇帝も帰依し国師となった人)によると、ブッダの究極の法を多面的にとらえ「一念三千論」の生命科学理論を提唱し、像法時代(釈尊滅後1000年から2000年の期間)の仏・ブッダ(生命の真理の覚者)と言われています。すべての人間の生命に等しく十境界は内在し、縁(対象)によって現れると説きます。人間は、今の瞬間に、10境界のどれかを表わしていますが、一定せず絶えず変化(生死を繰り返し空・くうの状態で存在)していると説きます。
(コラム2)生命の振動と音律…この宇宙に存在するすべてのもの、物質、空気、液体などはすべて原子、素粒子で構成されていると物理学は発見しました。その素粒子は振動し音を出し、独自の周波数で波動します(周波数…一秒間に振動する数、単位はHz・ヘルツ)。私たちの脳波は通常、シーター波(4~8Hz、まどろみ時)、アルファ波(8~13Hz、リラックス時)、ベーター波(13~30Hz、活動時)、ガンマ波(30Hz以上、緊張、興奮時)の周波数が中心になっていると言われています。
しかし、それは脳のごく一部のことです。脳波は脳全体の振動ではなく、大脳皮質の一部の振動をとらえたものにすぎません。複雑な脳は、億を超すニューロン(神経細胞)、グリア細胞、脳髄液、さらに数兆個あるシナプスの振動など現代科学のレベルではとらえることは不可能です。現在の脳波の知見で、心の病を完治させようとすると間違いを起こします。今の脳波は、あくまで一部の事実とみるとき、それを生かすことができます。
周波数が高いと波動も大きくなります。この宇宙で最も周波数が高い存在は、現代量子物理学の発見によると光とされ、400兆Hz(赤外線)から700~800兆Hz(紫外線)と言われ、思考や想像を超えた神がかり的な奇跡の周波数です。私たちは光で生きています。また微細な光を体から出しています。それをバイオフォトンと学者は名付けています。生命は不思議です。
私たちの身体と心は無数の周波数を奏で、瞬間瞬間、秩序を作りながら流れています。ある瞬間、その多数の振動が統合されたものが意識であるといった脳科学者(フリーマン)がいます。苦しみの周波数は一つの形があると推測されますが、音階が同じでも音色が違うように表出された周波数と、その波形は無数になります。それが生物や動物や人間のかたち・相の違いを形成していると思われます。その相も仮に和合されたものであり、絶えず変化しています。この世のすべては仮に和合したものが変化しているにすぎないとブッダは覚知しました。
(コラム3) 仏法生命科学論…森羅万象、万物、自然、生物、宇宙のあらゆる現象は法で織りなされています。すべての現象をブッダは覚知しました。これまでの科学は、その生命現象の物資的側面の部分部分を原子・素粒子・電磁波などを分析し解析し、その中に法を発見することに成功しました。その発見された法で生活を利益しています。真実の法の発見は価値を生みます。これに対して心の法、生命の法はブッダが覚知、発見したと言われています。科学が発見した法は宇宙・自然・生命現象の部分部分の発見です。そしてそれらの発見を継承し積み上げて、さらに新しい発見につなげてきました。科学は帰納法を基本にしています。ヒポクラテス、ピタゴラス、パスカル、アルキメデス、ガリレオ、コペルニクス、ニュートン、ハイゼンベルグ、アインシュタイン、エジソン、パスツール、ニコラ・テスラなどの数多くの科学者たちは、いずれも宇宙・生命の法則の一部の発見者です。それに対してブッダの発見は宇宙の法の全体、つまり生命の真理の発見と言えます。
ブッダの発見は直観智によるもであり、科学的帰納法に対して、演繹法と言われています。現在の諸科学が徐々にブッダの悟った法の正しさを証明しつつあります。仏法は生命科学です。その法を正しく実践すれば、あらゆる心病は治り、すべての人は、心の自由を獲得し、心の富者となり、崩れない幸福境に至る(衆生所遊楽…生命は本来、今を障りなく、楽しく、自由に「振動」し、生きている)とブッダは断言しました。大事なことは、ブッダの悟った真理の法とは何かということです。ブッダとは宇宙の真理を悟った人のことですが、この宇宙には無数のブッダがいると釈尊(釈迦)は言いました。宇宙真理の法は、言葉で表現できないものですが、比喩としての言葉を使うしか伝えられません。(衆生所遊楽…出典は法華経如来寿量品)
(コラム4)六根清浄の果報…六根とはも眼根、耳根、舌根、鼻根、身根、意根の六つの能力を言います。五つの感覚と意識が浄化されれば、物事の本質がつかめるようになります。例えば眼根清浄を得た人は、人の心が見えるようになり、何が正しく何が間違いかがわかるようになります。見えない部分も見えるようになります。常楽我浄の四徳…常は生命の永遠性が覚知できるようになることです。楽は生きていることが楽しくて仕方がないという境涯になります。我は何があっても不動で揺れない心の強さの持ち主になります。浄は世間の濁りに染まらない清らかさを保てるようになります。
〇筆者の生命哲学研究歴… 広島大学総合科学部(一期生)在学中から、天文物理学、哲学、文学、思想、日本人の行動様式論、生と死の宗教(主としてキリスト教と仏教)、心理学、仏法生命哲学を研究してきました。深層心理学と仏法生命哲学研究歴は50年を超え、ここ10年は量子力学、身体科学と仏法生命科学(中心は法華経)の関係性を重点的に研究しています。学びの旅は今も続いています。